2014/01/01

新年のごあいさつ

あけましておめでとうございます。


去年は、一昨年から進めていた研究組織の移動のためもあって、夏の終わりからの更新がかないませんでした。

その間、研究仲間や学生さん、活字中毒の友人たちからたびたび更新の催促があったことは、とても勇気づけられたものでした。

学問は、直接的に経済的・社会的な即効性を持ちうるものではありません。
そのために、学問・論理・理論が役に立たない、金にならない、だから棄ててしまえ、といった非難にさらされることにもつながってしまいます。

しかしそれでも、論理がなければ、我々人間がそれぞれに体験する経験は、その個別的な経験のままで終わります。
そして論理がなければ、他者の経験や知見を自分の実践のために、また将来のために活かすことができないままになります。
さらにまた学問がないのなら、人類の文化が、その根拠を失うことになるのです。



わたしたち人間が、両親から生まれ育てられて、今のような独自の身体と精神を持つ存在となった時、その恵まれた境遇に感謝したり、また逆に、他者のそれと比べて不足を嘆いたりすることがあります。

たしかに器量や背格好などをはじめ、物質的な諸条件は、職業や人生における助けになりますし、それをより活かす方向に進めることは時には必要でしょう。
しかし生まれ持った条件を、後生大事に保持し続けるだけで人類文化の担い手になりうるかといえば、それは違います。

とくに学問は、その構造として確かな論理が体系として張り巡らされていなければならないために、生まれ持った条件、つまり運任せで人生をどうにかやりすごせばいいと考える向きには、決して本質的なものになってゆかないという性質があるのです。

もしみなさんが生まれつきの鈍才であったり、それとは逆に天才肌の人間であった場合には、それがなぜそうだったのか、より正しくはなぜそうでなければならなかったのか、もっと正しくはなぜそうでなければならなくなってきたのか、を、過程的かつ客観的に観る努力をしてもらいたいと思います。

天才は、自分が一足とびにたどり着いてしまう結論が、どうして導き出されたのかの過程を考えてみることで、また鈍才はなぜ人並みにわからないのか、どこまで基本的なところから説き起こしてもらえればわかるのかを考えてみることで、それぞれ逆向きに、対象の持っている性質や因果関係が、どう人間の認識として移し替えられてゆくのかを探究してゆくべきなのです。

ですから学問にとっては、わかるということはどういうことか、わからないということはどういうことかなどという人間の認識についての理論、教えるとはどういうことか、教えられるとはどういうことかの人間の教育についての理論、対象を理解し、それを教え教えられわからないことがわかってゆくという論理についての理論、というものが、極めて密接な関係にあることになるのです。

これはそれぞれ、認識論、教育論(指導論)、論理学(弁証法)、と呼び習わされているものというわけです。



みなさんが天才であろうと鈍才であろうと、どんなに複雑な現象が目の前にあるときでも、それを誰でもわかるほどに基本的な原則から、解き起こしてゆくことのできる力を養ってゆかねばなりません。

それが、人類文化の担い手になるということであり、理論的実践家として仕事をするということです。

わたしも立場を同じくする者として、当人が努力をしたのならばそれだけの成果を、しっかりと身につけてもらえるだけの指導を実践してゆきたいと考えています。

今年一年の本質的進歩を祈念して。
本年もどうぞ、よろしくお願いいたします。

次回の更新は、今週末あたりになりそうです。