2013/09/15

『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』(6):1887.03.07 (I)

(5のつづき)


前回までで、学生のみなさんが「自分自身のわかっていなさ加減をわかる」という段階までは進められてきたので、ようやく次の手紙の内容に進むことになりました。

ただそれでも、まだ解けていない問題も含めて、初日の手紙については、これから残りを読み進めていくうちに折に触れて参照しなおしてゆかねばならない内容を含んでいます。

本心から認識論の実力をつけたいのであれば、ここも通常の授業とは違って、「提出したらおしまい」という姿勢ではいけないのだ、と、強制などされなくともしっかり自分の頭でわかってもらいたいと思います。

結局のところ、さいごまで「わからない、わからない」と言っていた人間が、いちばん進歩するのです。いいでしょうか、「わからないとわかる」のは、誰かに言われて気づけばいいのでは決してありません。また、誰かに勝ったからそれでおしまいというものでもありません。最終的には、自分でわからないことに気づいた上で、自分自身のアタマでその問題意識をいつも離さず持っておき、折にふれてその問題を考えてゆけるかどうか、という「アタマの中の見る目」こそが問われているのです。それを自分だけの力で持てているかどうかで、あらゆる能力を養えるかどうかが決まっているのです。

こう言うと、「わかってもわかってもわからないと言い続ける姿勢を求められるのであれば、いつも自分が間違っているのではないかとビクビクし続けることになるのではなかろうか」という質問があるものです。悪意のある場合はさておき、本心からこういう疑問が残っている場合は、まだ「わかる」ということの構造がわかっていない証拠ですから、前回の記事も含めて考えてみてほしいと思います。さて、では今回のレポートです。



読者のみなさんは、サリバンが初日(1887.03.06)の手紙の中でこう書いているのを覚えておられるでしょうか。

私はまずゆっくりやりはじめて、彼女の愛情をかちとろうと考えています。力だけで彼女を征服しようとはしないつもりです。でも、最初から正しい意味での従順さは要求するでしょう。

彼女は、自分がヘレンに教えることのできる、人間にとって本質的なことは「服従と愛」であると考えているのです。この段階まではサリバンはまだ、ゆっくりとヘレンの心を解きほぐすように働きかけてゆけば、その心に自然に愛情を育んでゆけるであろう、必要なときには力をもって言うことを聞かせなければならないだろうが…、と考えていましたね。

ところがこの日、サリバンは、「ヘレンと大げんか」をしたのです。それというのも、ヘレンのあまりにすさまじい食事の作法を正すため、他人の皿に手をつっこんでほしいものをとろうとするヘレンに言うことを聞かさねばならなかったからです。家族の人たちが迷惑を受けて食堂から出て行ったあと、床にころがり駄々をこねるヘレンを椅子に座らせるまでに30分、スプーンをどうにか握らせて食事を終えたはいいものの、ナプキンをたたむ段になってまた1時間もの取っ組み合いをすることになったのです。

この日の記録についても、学生さんのレポートをいくつか引きながら考えてみましょう。


◆ノブくんのレポート(文学考察:1887年3月月曜の午後(修正版))◆


 前回の手記でサリバンはヘレン・ケラーを「知的ではあるが、人間的な感情の機微については他の子ども達に比べて乏しい少女である」と規定し、今回のそれでは上記の理論に基づいた実践面について書かれています。
 結論から述べると、サリバンの試みは成功とはとても言えないものでした。彼女はこれまで甘やかされて育てられたヘレンを、普通の子どもと同じく、自分の食事に手を入れようとすれば叱り、またナプキンをたたませることを教育しようとしたのです。ですが、ヘレンはそうした彼女の試みに対して、強い拒否の反応を示しました。かと言って、それが完全な失敗とも言い難いものがあります。拒否をしたのものの、結果としてはヘレンは彼女の食事を食べることは出来ず、彼女の強制力によってナプキンをたたまざるを得なかったのですから。
 こうして今回の実践では大きな課題を残す事になったのですが、ここでサリバンは末尾に何か秘策があるとも感じられる、ある奇妙な一文を記してあります。

「あとは人間にできないことをうまくやってくれる何かの力にお委せするだけです。」

 一体、「人間にできないことをうまくやってくれる何かの力」とは何なのでしょうか。実はこの言葉については、次の日記に明確に記されていありますので、その説明も次回とさせて頂きます。



まずは誤字脱字の誤りからです。他の学生さんの誤字脱字とはその誤る理由が違っているからこその数度ならずの指摘なのですから、しっかりと自省し客観視を中心にした認識力を高めてください。机に向かう他にも、まず人間としての生活を整えることが大事です。きちんとした生活習慣を身につけ、部屋を片付け掃除し(続けることでしだいしだいに)正しい清潔感を持てるようにすることと、適度な運動と自分で整えた食事を摂ることが何より重要です。人間としてのあり方を整えるつもりがないのなら、そもそも一流を目指すなどもってのほかであるという一事をしっかりと自分の脳裏に養える生活をしてください。


正誤
次の日記に明確に記されていあります

さて、横道から本道に戻りましょう。

結論から言って、今回のレポートはあまりにも現象に引きずられすぎているようです。ヘレンの認識のあり方は、またサリバンの認識のあり方は、この中のどこに書かれているのでしょうか。他の学生さんたちの熱心さに押されて、先行者の自負からかレポートを前もって提出してくれるのは嬉しいのですが、それも一定の質あってこそです。

論者は、サリバンがヘレンに最低限のテーブルマナーを教えることには失敗したが、「彼女の強制力によってナプキンをたたまざるを得なかった」という点においては成功であったと言える、と述べていますが、本当にそうでしょうか。

ここでサリバンは見た目の上では、たしかにヘレンに最低限のテーブルマナーを身につけさせようとしているのですが、そのことそのものだけをやらせたいわけではなく、これはあくまでも、ひとつの目的意識に照らした指導の一環として必要だった、ということです。そんなことはわかっています、と弁護したいのであれば、ではその目的意識というものはどこにあったのか、サリバンはヘレンの内面をどう読み取ったからそうせざるをえなかったのか、ということを論じねばなりません。

このことに答えてくれるレポートがありますので、論者はしっかりと読んでください。


◆Oくんのレポート◆


 今回の手紙ではサリバンがヘレンと朝食をともにする場面が記述されている。ヘレンの食事の作法は凄まじく、他人の皿に勝手に手を突っ込み勝手にとって食べる、手づかみで食事をするといった、おおよそ人間らしからぬ物であった。3月6日の手紙にもあるが、ヘレンの行動を制止するのは兄のジェイムズしかいなかった。おそらくヘレンの家族の中にはヘレンの食事が食事をとる時に食欲や衝動を彼女がどの様に発散すればよいのか人間として必要で有効な手段をヘレンの頭の中に働きかける方法がなかったのではないだろうか?
 実際の食事に入るとサリバンはヘレンに自分の皿に手を突っ込ませようとはさせず、後に引かぬヘレンとの間で意地の張り合いとなった。その際にヘレンの家族は食事をおこなう部屋から退出していた。この事に気付いたヘレンは大きく戸惑うこととなる。これはヘレンにとって常に自分の頭の中で靄のようになっている衝動を自分の欲求の思うまま発散する事を許容する存在が自分を取り囲む世界からいなくなった事がヘレンの認識に戸惑いを与えたからではないだろうか。
 ここでサリバンがヘレンと意地を張り続けるという事は到着した瞬間に見せた、カバンに興味を持ったヘレンに対して腕時計を用いて興味の対象を変更し、ヘレンの衝動の発散とぶつかり合わないようにしていた事と一見矛盾するように見える。しかしこれはサリバンがこの状況で気をそらすという手段を使ってはいけないと認識をしていたという事である。この事は3月11日の手紙に「服従こそが、知識ばかりか、愛さえもこの子の心に入っていく門戸である」とある事からも伺える。
 おそらくサリバンはこの食事という場においては食事という動物にとっても人間にとっても日常的に必要とする行動に対して、人間であるヘレンが日常的に動物の様な食事のあり方を蓄積していたのでは、人間として生活していくのにあたって必要な明確な像を頭の中に描くための知性や認識を積み重ねて行く事は出来ないと考えたのではないだろうか。そこでヘレンにスプーンで食事をとる、食後にナプキンを畳むといった人間として服従するべき習慣を体に教える事を通じて他者への服従を要求したのではないだろうか。




驚きました。素晴らしいレポートです。

どこが素晴らしいのかを前もって指摘しておくと、ひとつに、ヘレンの、他人の皿に勝手に手をつっこみ勝手にとって食べる、という癖について、彼女の認識に立ち入った考察がなされていること。ふたつめに、サリバンがそれを、なぜできれば使いたくないと考えていた「力」で以て言うことを聞かせる必要があると判断したのかを、これまたサリバンの認識に立ち入って考察してあること、です。

しかも後者については、人間が人間であるからには、同じ食事を摂る場合にでも、栄養を満たせばそれでよいというのでは決してなく、そこには社会性が前提としてなければならない、そこが動物と人間との違いであり、だからこそしつけというものが必要なのだ、と読める書き方がなされています。

この問題に自分の力で取り組んでみて、このレポートを読まれた方は、「すごい考察をする人間がいたものだ、負けてはいられない…」とじわりと感じ取られたと思いますが、これで終わらせるのももったいないですから、その論じ方を順に追うことで理解を深めておきましょう。



まず一段落目のうち、この箇所はよく書けています。
おそらくヘレンの家族の中にはヘレンの食事が食事をとる時に食欲や衝動を彼女がどの様に発散すればよいのか人間として必要で有効な手段をヘレンの頭の中に働きかける方法がなかったのではないだろうか?
正誤
ヘレンの食事が食事をとる時に→ヘレンが食事をとる時に

この指摘はそのとおりです。ヘレンの家族は、人間として全うな倫理観・道徳観と社会性を持っているようです(ここで言う「社会性」の中には一般的なマナーも含まれています)。ヘレンの兄ジェイムズには、ヘレンの悪い振る舞いを制止するだけの倫理観が備わっているのですから、家族のしつけは一般的な意味では悪いものではなかったと推測できます。それでもヘレンにそのしつけが兄ほどにはゆきわたらなかったのは、他でもなく彼女が障害をかかえていたからであり、技術の問題として見るならば論者の言うとおり、「食事をとる時に食欲や衝動を彼女がどの様に発散すればよいのか人間として必要で有効な手段をヘレンの頭の中に働きかける方法がなかった」からです。

つまり、両親は自分自身では正しい認識(倫理観・道徳観)を持ってはいたけれども、それを障害を持ったヘレンが身につけられるようなやり方でしつけるための<技術>を持ち得なかった、ということです。その空白を埋めることこそ、サリバンがケラー宅にやってきた意義があったのでした。

ここで「人間として」とことわりが入っているのは、サリバンの目的意識を代弁しており、簡潔ながら的確な指摘であると言えるでしょう。このことは後に述べます。



次に、2段落目に着目しましょう。
 実際の食事に入るとサリバンはヘレンに自分の皿に手を突っ込ませようとはさせず、後に引かぬヘレンとの間で意地の張り合いとなった。その際にヘレンの家族は食事をおこなう部屋から退出していた。この事に気付いたヘレンは大きく戸惑うこととなる。これはヘレンにとって常に自分の頭の中で靄のようになっている衝動を自分の欲求の思うまま発散する事を許容する存在が自分を取り囲む世界からいなくなった事がヘレンの認識に戸惑いを与えたからではないだろうか。
サリバンがヘレンと、食事のマナーをめぐるけんかを始めてから、他の家族は迷惑を受けて食堂から出て行ってしまいました。ヘレンは物心ついてから、このようなことはこれまでなかったのです。相手が居てこそ暴君として振る舞えるのですし、そうして自分が気に入らないことを表明することで<内発的な衝動>を歪んだかたちで満たしていたのですから、それが発揮できない事態というのは、彼女の想定外であったことでしょう。ですから、「この事に気付いたヘレンは大きく戸惑」った、という理解(=ヘレンの認識を我が事のように繰り返す;観念的二重化)は適切です。

続いて、そのヘレンの認識のあり方について触れた文章、これが素晴らしいですね。
ヘレンの頭のなかでは「靄(もや)のような衝動」が発散できない状態となっている、という指摘がありますが、これは本当にこのとおり!なのです。
赤ん坊が母親という母体からおぎゃあと生まれて泣き始めるのは、「だれでもいいからこの不快な状態をなんとかしてくれ!」という不快感が、一体全体何が何やらわからない状態のまま頭のなかを駆け巡って渦巻いているからです。(参考文献:海保静子『育児の認識学』)

ヘレンの認識のあり方が、同じ年頃の少年少女の段階にまで至っておらず、明確な像を創る状態に達していない、つまり「何が何だかわからない」という状態を見て取って、それを「靄(もや)のように」と表現したのには驚きました。よく勉強していますね。



そして3段落目もこのとおりです。
しかしこれはサリバンがこの状況で気をそらすという手段を使ってはいけないと認識をしていたという事である。
初日の手紙の中にサリバンのバッグをとりあげようとして騒ぐヘレンに、代わりに腕時計を握らせてそれをなだめた、という箇所がありましたが、この食事に関する指導については譲歩的・代替的な手段を取らず、一歩も引かなかったというのは、サリバンはこの点ではどうしても譲ることができない、と考えていたからに他なりません。

それがなぜだったのか、どういう目的意識に照らせば譲ることができないと考えられたのかは、次で明らかにされます。



それが、4段落目です。
 おそらくサリバンはこの食事という場においては食事という動物にとっても人間にとっても日常的に必要とする行動に対して、人間であるヘレンが日常的に動物の様な食事のあり方を蓄積していたのでは、人間として生活していくのにあたって必要な明確な像を頭の中に描くための知性や認識を積み重ねて行く事は出来ないと考えたのではないだろうか。そこでヘレンにスプーンで食事をとる、食後にナプキンを畳むといった人間として服従するべき習慣を体に教える事を通じて他者への服従を要求したのではないだろうか。
サリバンが、どうしてヘレンに正しい食事のあり方を学ばせようとしたのかが、過程的構造を意識しながらはっきりと書かれていますね。

そのとおり、人間が人間であるからには、同じ栄養価を満たせばどんな姿勢のどんな食事作法でも良いというわけにはゆかない、という人間観がサリバンの脳裏にはっきりと描かれていたから、彼女は譲らなかったわけです。

そしてまた、幼少期の日常生活の毎日毎日の繰り返しの中で、ひとつの個体は人間らしく「創られて」ゆくのですから、日々のふるまい方が間違っていれば、その感覚すら間違って創られていってしまうのだ、という指摘も正当です。不潔な環境で育ってしまっているのなら、家の中が髪の毛やホコリだらけであっても平気になってしまうどころか、それが好ましいとさえ感じられる感覚を身につけてしまうのであり、食事の前に歯磨きをすることや、髪の毛を濡れたままで放っておくなど、良くない生活習慣も同じようにして身についてしまったものなのです。


さらにここには、動物的に、つまり本能に任せたやり方で日常生活を送るのならば、「明確な像を頭の中に描」いて対象に働きかける、という人間存在の根本的な条件を満たすことすらもできなくなってゆく、という原則が書かれています。人間と動物を隔てているのは、まさにこの、目的意識をもって対象に働きかける、という、<労働>という観点においてです。動物は本能で行動しますが、人間はまだ現実には存在しない「こうなったらいいな」という目的意識という認識を脳裏に描き出す能力があり、それを満たすべく対象に働きかけるのです。サリバンが論理的・理論的にこのことをふまえていたかどうかは定かではありませんが、少なくとも彼女はそれまでの学習内容やヘレンとのかかわり合いの中から、経験的にではあってもこれらの原則をふまえられていたと考えられるのです。

そうしてさいごに、それらのサリバンの根本的な目的意識をふまえて、彼女がヘレンに、食事はきちんと座って素手ではなくスプーンを使って摂るものであり、食後にはナプキンを畳んでおくことが人間としての社会性にふさわしいものである、ということが述べられています。そのことに加えて、それらは幼少期から自然成長的に身につくものでなく、両親や保護者からわけもわからないうちにまずは身体で覚えこまされたあと、しだいしだいにその中身を埋めるように倫理観が追いついてゆく、という過程についてもおさえることができています。

基本線について、しっかりおさえられています。これだけのことがわかっているのであれば、人間とは、労働とは、教育とは、などの本質論が、大まかな体系として脳裏に出来上がりつつ実感があるのではないかと思います。それで間違ってはいませんので、より精進を続けてください。



細かい指摘は以上のようになりますが、これらを書き得たそもそもの理由というのは、やはりヘレンの認識のあり方をその時その場所の彼女の立場に立ってとらえ返そうとし、また、それをサリバンがどう見たか、というその認識のあり方を、同じく適切に我が身に捉え返してふまえることをやろうとしたからこそ、なのです。

そこには倫理観・労働観をふくめた正しい人間観があり、また、人間として創られる、ということの過程における構造の正しい把握があるのです。


(7につづく)

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