2013/07/31

サリバン(著)『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』はどう読むか(2):1887.03.06 (その1)

(1のつづき)


前回の記事では、これから取り組む書籍を挙げたうえで、それを単にうまくいった障害児教育のケーススタディとして見るのでなく、そこにサリバン女史の人間観と、認識論的な裏付けがあったればこその類まれなる成功例となったのだと読んでほしい、とお伝えしておいたのでした。(※前回の記事も含めて、本書並びに類書にあわせるかたちで「障害児」の表記を整えました。差別的な意味合いは当然ありません)



これからこの書籍の内容に入ってゆきますが、この本では、アン・サリバンがヘレン・ケラーの家庭教師となり、彼女の知的生活の最初の2年をいかに過ごしたかが述べられています。

ここで「知的生活」とことわらねばならないのは、当時6歳の女の子であったヘレンは、1歳8ヶ月のときに思い病気にかかり、聴力と視力を失ったことがきっかけとなり、何の教育も受けずにおかれていたからです。

そのようなヘレンの現状を見た時、サリバン女史は彼女がどのような状態であると見たのか、そしてそこへどのように働きかけたのか、をこれから追ってゆきましょう。

さてその前に確認しておいてほしいのは、この二人を描いた映画のタイトルや、ヘレン本人の手になる『わたしの生涯』(角川文庫)の裏表紙には、「奇跡(奇蹟)の人」ということばが出てくるということです。

これは一般には、盲・聾・唖という三重苦を乗り越えたヘレンのことを指している、とされることが多いようですが、本来の意味合いとしてはいったいどちらのことであったのか、と考えてみてもらいたいのです。

この問いは、答えるだけであるなら簡単で、映画の原題が“the Miracle Worker”であることを考え合わせれば、もはや答えは出ているようなものなのですが、「ではどの辺りが奇跡的であるのか?」と聞き返されたときには、生半可な読み方ではとても答えることはできないはずです。

みなさんに問いかけられているのは、まさにその部分、つまりサリバン女史の教育の、いったいどこが奇跡的な手腕であると言えるのか、という問題であるのです。

はじめに、教師・サリバンの出生について触れておき、内容に立ち入ってゆくことにしましょう。

1866(0)アイルランド移民の貧しい家にて生まれる
1876(10)救貧院に入れられる。目の病気を患いほぼ全盲に
1880.10(14)パーキンス盲学校入学。視力は幾分回復
1886 学校を卒業、ヘレンの家庭教師へ推薦される
~1887.01 半年間、ハウ博士の報告書から学ぶ
1887.03 ヘレンの教育はじまる

◆◆◆

以下は、学生さんのレポートにわたしがコメントするといういつものかたちで書き進めてゆきます。

ただ率直に言ってこの本は、認識論がどういうものかがわかっていない人、人間の認識のあり方を論理の光を当てながら見てくることがなかった人にとっては、ほとんど手に負えないものです。サリバン女史の手紙には、難しいことばは出てきませんが、その内容はそれだけ、とても高度だということです。言い方を変えれば、この本をアッサリ、どこにもつまづかずに読み終わってしまった人は、自分のわからなさすらわかることができていない状態である、ということです。

そのため一見すると、レポートをさっさと脇に片付けて、わたしだけがしゃべっているようにも見えることがあるでしょうが、「せっかく書いたのに無視しなくとも…」という気持ちをぐっとこらえて、より深い読み方ができるように、より深く人間の認識のあり方をたぐり寄せることができ、またそこにより上手に働きかけてゆける人物になっていってもらいたいと思います。


◆1887.03.06(ノブくんによるレポート:文学考察
(以下、本書の表記に倣って日ごとに分けて考察してゆく。以前公開したマインドマップも参照のこと。適宜書き足しながら読み進めることが望ましい。)
 この作品ではタイトルにもある通り、アン・サリバンによるヘレン・ケラーへの実践記録を中心にして、ヘレンがどのように教育されていったのかが描かれています。その中でサリバンは、彼女が人間的な感情を一切持ちあわせておらず、ただ快不快だけがある野生の動物のようであると規定しました。そしてこの野生児を制服をすることで教育の土台をつくり、言葉を獲得させることで知性をあたえていったのです。 
 そこで、ここでは具体的にサリバンがどのようにして上記のような方針を固め、具体的な実践に至ったのかを彼女の記録のひとつひとつを見ながら確認していきたいと思います。 
 サリバンとヘレンが最初に出会った日、サリバンは彼女がどのような人間であるのかをじっくり「観察」していました。ここで注意しなければならないのは、「観察」というとなんだか受動的な意味合いが強いようなイメージがありますが、彼女のそれはあくまで教育という実践を前提とした積極的なものなのです。というのも、彼女はヘレンに指文字を感じさせたり、ビーズを糸に通させたりして、彼女は何が出来るのか、何について興味があるのかを探し当てようとしたのでした。その結果、ヘレン・ケラーという女の子は知的ではあるが、人間的な感情の機微については他の子ども達に比べて乏しい少女であるという結論に至ったのです。

◆わたしのコメント

1887年の3月3日のこと、ケラー宅へ到着したサリバンは、熱い期待のなかヘレンと出会います。

さきほどの出生でも見たとおり、サリバン女史はヘレンの家庭教師に推薦されてから半年のあいだ、ハウ博士がローラ・ブリッジマンの教育にあたった記録を読んできていました。

このときのサリバン女史には、ヘレンが満7歳になる3ヶ月前の女の子で、1歳8ヵ月のときにかかった重い病気のために聴力と視力を失い、これまで何の教育も受けずにおかれていた、という情報が伝えられていました。

しかしハウ博士の記録からの連想で「なんとなく青白くて神経質な子供を想像していた」彼女の予想は裏切られ、出てきたのは「大きくて丈夫そうで血色もよく、子馬のようにたえず動いて、じっとしていることは」ない、そんな少女でありました。

彼女がヘレンの第一印象を具体的に述べているところを見てみましょう。
彼女の顔は大きくて、肩の上にまっすぐにのっています。顔は描写するのが困難です。顔つきは知的ですが、でも、動き、あるいは魂みたいなものが欠けています。口は大きくて、美しい形をしています。誰でも一目で、彼女が盲目であることに気づくでしょう。一方の目は他方より大きく、めだってとび出ています。彼女はめったに笑いません。私がこちらに来てから、彼女の笑い顔を見たのはほんの一度か二度です。また、反応がにぶく、母親以外の人に愛撫されるのが我慢ならないようです。ひどく短気で、わがままで、兄のジェイムズの外は誰も彼女をおさえようとしませんでした。
さて、ここからどのようなことを読み取ればよいでしょうか。

まず体格からすれば、ヘレンは健康そのものであることは間違いないようです。「聴力と視力を奪われてしまったあの病気以来、一日も病気をしたことがない、というケラー夫人のことばもそれを裏付けています。

しかし視線を上げると、彼女の顔は、顔つきは知的で口の形は美しい、つまり器量としては悪くないけれども、少なくない違和感がある、とサリバンはとらえたのです。
(目の様子については、幼少期の病とともに、目が見えないことから、たとえば鏡を見て自分の左右の目のバランスを意識して整えるといったことのための、認識的な前提が得られないことから来ているでしょうから、これはサリバン女史にとっては大きな問題としては映らなかったはずです)

ではその違和感とは何だったのかといえば、その表情に「動き、あるいは魂みたいなものが欠けてい」ることと、「めったに笑」わないこと、です。

サリバンにとっては、当人のすがたかたち、器量などといった肉体的なところに問題があるのではなくて、サリバン流に言うところの「魂」や「笑顔」の不足というかたちで現象するおおもとの、ヘレンの精神状態のほうにこそ、これからの教育において焦点を当てるべき問題があるとしたのです。

ですから、論者が「ヘレン・ケラーという女の子は知的ではあるが、人間的な感情の機微については他の子ども達に比べて乏しい少女である」としたのは、「知的」という一語が指している内容が、肉体にあるのか精神にあるのかを明確に判別せずに読み進めてしまったことを示していることになります。さらに言えば、次回以降のレポートで展開されている「サリバンはヘレンの生まれ持った知性を延ばしてゆこうとした」、という見方も誤りです。サリバンが現地に赴いて見たのは、ヘレンの、肉体的には健康であるが、精神的・情緒的には同じ年齢の子どもと比べると明らかな未発達が見られる、という姿でした。

それは、顔つきだけでなく全体として、「反応がにぶく、母親以外の人に愛撫されるのが我慢ならない」ことに加えて、「ひどく短気で、わがまま」である、というところにも顕れています。


では、こういったヘレンの、肉体的には不足ないが精神的には未発達のままであるようすを見て取ったとき、サリバン女史が脳裏に描いた、彼女への教育方針というものはどんなものだったのでしょうか。

彼女の言うところを聞いてみましょう。
彼女の気質をそこなわずに、どうやって彼女を訓練し、しつけるかがこれから解決すべき最大の課題です。私はまずゆっくりやりはじめて、彼女の愛情をかちとろうと考えています。力だけで彼女を征服しようとはしないつもりです。でも、最初から正しい意味での従順さは要求するでしょう。
論者にとっては、ここでサリバンが言う「気質」というものが、あたかも「知性」と呼ぶべきものであるかのように受け取られていますが、これは子ども特有の活発さ、内的な衝動などといった意味なのであって、奥底に秘めた知性などというものではありません。

このことは、サリバンがのちに、言語を知的に使うためには話す事柄を得ることが必要であり、またそのためにはとりもなおさず経験することこそが必要なのだと述べている(本書末尾の「サリバン女史の論文からの引用」内)ことからもわかるとおりです。ここを勘違いしていると、本書を読み進めるにあたっての大きな障害となりますから、正しく押さえておいてもらいたいと思います。


説教は続きますがあとに回すとして、ひとまず彼女が続けるところを見ておきましょう。
ヘレンの疲れを知らない活動は誰をも感心させます。ここにいたかと思うとあそこというふうにどこにでも動きまわり、一瞬たりともじっとしていません。手であらゆる物にさわりますが、長い間彼女の興味をひきつけておくものは何もありません。かわいい子どもです。彼女の休息を知らない魂は暗黒のなかを手探りしています。教えられたことがなく、満足することのない彼女の手は、物をどう扱っていいかわからないために、さわる物は何んでもこわしてしまいます。
さきほどサリバンは、出会ったその日のうちにヘレンが「正しくしつけられていない」と見ぬいたわけですが、これはケラー宅で過ごすうちに後になって、ヘレンがその障害のせいで大目に見られ、甘やかされて育てられているという裏付けによって確信に変わってゆきます。

これを見たみなさんは、では、これほどまでに彼女が初対面の少女の本質を見ぬきえたのはどうしてなのか?と考えておかねばなりません。そして本書を検討してみたとき、サリバンが、正しい人間観を持っており、また、個々人としての人間の発達段階における少女期というものの位置づけ(=特殊性)をわかっていたことが非常に大きいのだ、とわかってもらいたいと思います。だからこそ、その観点に照らしてヘレンの状態を見たとき、一般的な6歳の女の子としては未発達の部分が見え、さらに、このままの状態を積み重ねてしまってはひとりの人間としての可能性が閉ざされたままとなってしまうというところにまで意識を向けることができたのです。

原則をしっかりと持っているからこそ現象が正しく理解できるのであって、現象なしの原則は空文であり、原則なしの現象は雑多な事実のモザイクでしかないことを示すのは<弁証法>ですが、その論理を土台とし、現実を生きる人間を正しく見る方法を教えるのは<認識論>です。

さてその、認識論の観点から見れば、この引用部はどのように読めるでしょうか。

ここにいたかと思うとあそこというふうにどこにでも動きまわり、一瞬たりともじっとしてい」ないのはなぜでしょうか。「さわる物は何んでもこわしてしま」うのはなぜでしょうか。何がヘレンをそうさせて、どうすれば正しい道へと導いてゆくことができるのでしょうか。この本を全体として読んで、この日サリバンがヘレンについて気づいたことと、そこにどう働きかけて訓練してゆくかを計画したことを、大きな流れとして位置づけることができたのであれば、この本から学べたことになるでしょう。




論者のレポートだけでなく、これまでに見せてもらったどのレポートにも言えることですが、あまりにも、この本を簡単に済ませてしまおうという姿勢が目についてしまいます。わたしはこの本を読むことに決めたとき、思っているよりもずっと難しいからじっくりと読んでくださいとお伝えしていましたが、もし「あれ、意外と簡単だな。もう読めてしまったぞ?」と思ってしまっているのだとしたら、それは能力が高いからではなく、自分自身がわかっていないということがわかっていない、と言うべきなのです。

わたしはこの本を今回の課題のために読みなおしたとき、マインドマップを作りなおして全体像を掴み、そこに本書に書かれている「サリバンの得た教訓」と、「彼女が見たヘレンのその日の状態」のふたつを適宜書きだしてみたあと、全体の流れを自分がその場にいたら同じことができたであろうか?と問いかけてみて追ってみましたが、「エッ、ここはどうしてこしたの?」という場面の連続であり、あまりにもわからないところが多すぎて、自分の認識論的な実力の無さに少々呆れたものです…と言うと、あまりに卑下しすぎに聞こえるでしょうか。

しかしたとえば、その日、その日のヘレンの現状が書かれている箇所を読んだあと、サリバンが導き出した方針や指導内容の箇所を「隠して見えなくしたとしても」、「同じことを根拠をもって脳裏に描き出せたであろうか?」と問うてみて、それができる!という状態になってはじめて、本書を本当に理解した、と言うことができるのです。

認識論の素材は、われわれが生きているこの社会のなかにいくらでも転がっていますが、そこで学び得るか否かということは、わたしたち自身の志こそが決めていることなのです。それを格好の素材としてみなすことができるかどうかは、それを見る者が自分の人生をどのようなものにしたいか、という原則に照らされて浮かび上がってきているのです。だから、人の気持ちがわからない人は何歳になってもわからないのであり、わかろうとする人はこの若さでお見事、と言える経験を日々積み上げ、それにふさわしい人格を創りあげていけるのです。アン・サリバンその人は、大学を出たばかりの年齢で、ここまでのことをやり遂げたのです!この大事さ、恐ろしさが本当に、わが身に直接関係のあることとして、捉えてもらえているでしょうか…。内容に立ち入って議論する前に、そこをしっかりと確認してもらいたいと思います。




ところで、苦言だけでは先に進めにくいでしょうから、基本的なことを押さえておきましょう。まずは、一般的に、ひとつの書籍を本当に理解するためにはどうすればよいのか?という問題から振り返りましょう。

一般的に言って、対象となる事物・事象のあり方を正しく押さえるためには、まずは全体を見渡しその一般性を押さえた上で、それに照らすように各部分の特殊性を明らかにしておかねばなりませんでしたね。たとえば生物の身体を調べるときには、それが全体として生きている、つまり代謝しているということを見て取った上で、呼吸器系とは何なのか、消化器系とは何なのか…と、各部分・各器官がそれぞれ個々別々・特殊的に働きながら、それにもかかわらず全体としては調和がとれている、というかたちで、矛盾が統一されているものと見なければなりません。

ですからこの本も、全体を貫くサリバンその人の指導方針と、日々それぞれの指導内容が、「サリバンの中にはこのような大きな見立て・大きな絵地図があって、そこにまでヘレンを導いてゆくためには、この日こういうことをしなければいけなかったのだな」というふうに、読者の頭脳のなかに統一されたものとして体系立てられていないのなら、彼女がいかなる奇跡を起こしたのかは到底見て取れないことになるのです。

それなのにあたかも、本書をはじめのページからめくっていって、片っ端から要約でもすれば全体を理解したことになるかのような姿勢は、あまりに寂しいばかりの思い違いであると言わねばなりません。教育、とくに変化の激しい子どものそれは、毎日の積み重ねがその個性という質として現象してゆくのですから、日々の記録をばらばらに理解するのでなく、一日一日が刻一刻と積み重なることで重層的な構造を作り上げながら現象してゆくという大きな流れをしっかりと掴んでおかねばなりません。これは、その日の出来事がその日に起こっていなければならない、という必然性を伴うものであって、あの日とこの日が入れ替わっても大して違いがない、といった生易しいものでは決してありません。

みなさんに足りないのは、その、<必然性>という観点です。全体としてこのような到達点があったのであるからには、そこにまで至る過程において、このような積み重ねがあったからなのだな、ないといけなかったのだな、とわかるということが、必然性を把握する、ということです。とても難しいとは思いますが、まずはそこを意識しながら書いてみてほしいと思います。それが書けるというのは、ヘレン・ケラー教育の2年間の過程のうち、この日の特殊性はこのようなものであった、という、全体の中でのその日の位置づけ、その日が積み上がることでの全体、というものが言えていることでなければなりません。

こう書き置いただけでも、「えっと…それで…これからなにをすればいいのかな…??」と、はてなマークが頭のなかを飛び回っているかもしれませんので、念押しのために、サリバン女史がのちに、ヘレンへの訓練を振り返って書き残してくれている箇所を引用しておきましょう。



さまざまな現象を観察する範囲が広くなり、語彙が豊富さと微妙さを増してくると、彼女は自分自身の考えを表現することができ、また他人の思想をも理解できるようになり、やがて人間を創造した力について考えるようになり、何か人間のではない力が地球や太陽や彼女のよく知っている数多くの自然物を創り出したとうことを感じるようになった。
(「サリバン女史の報告書からの抜粋」より)

「最初、私の生徒の心はまったく空虚であった。彼女は理解できない世界に住んでいた。…ヘレンがすべての物は名前をもっているということに、また、指文字を使ってこれらの名前を人から人へ伝えることができるということに気づくや否や、私は彼女が喜びながら名前を綴ることを覚えたその対象について、さらに深い関心を目覚めさせるようにした。」
(巻末「サリバン女史の論文からの引用」より)


さて、次回は本書の内容に立ち入って議論ができるでしょうか。

まずは1887年の3月6日その日が、ヘレンの訓練全体のうちでどのような意味を持っていたのか、を鮮やかにとらえたようなレポートが出てくることを願ってやみません。「こういうことかな?」というものができたら、恐れず飛び込んで見せてもらいたいと思います。

わたしが「長い道のりになる」と言ったのは、なにもサリバン女史の手紙の数が多い、といった表面的な意味だけではなかったのでした。じわりじわりと、理解すべきことの重みが、みなさんにも浸透してきたでしょうか。


(3につづく)

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