2013/05/31

本日の革細工:自転車リアバッグG1R (4)


(3のつづき)


フェイス部が決まってくると、これから作ろうとしているものの全体像が、アタマのなかでとても明確なものになってきます。

創作活動においては、理想の像、つまり、「こんなものが欲しい、創ってみたい!」という像が明確になればなるほど、「今は頭の中にしかないそれを、一刻も早く現実の世界に出してみたい」という思いが強まります。

ここでもやはり、目的像を持って対象に働きかけそれを作り変えようとする、という人間特有の労働のあり方が根本に現れてきます。

前2回の記事でも述べたとおり、ものづくりというものの本質は、実のところこの、「アタマの中の像」について、何を、何故、どう作るのかということをどれほど明確にできているか、にかかっているのです。

この像を明確にするにはどうすればよいか、といえば、これは机の上で考える前に、それが現実においてどのように使用されるのか、が、素材としてアタマの中に持てているのでなければいけません。

ここを踏み外して、像とはつまりアタマの中での操作であるから、アタマの中でのみ完結してしまってよいという誤った前提を反省しないでいると、今度はその像を現実の表現へと移し替えた時に、現実にはそぐわないものになっているのが必然、ということになってしまうのです。

たしかに手先がある程度器用であれば、つまり<技術>を持ってさえいれば、表向きのかたちを整えることはできるものですが、その<技術>というものは、出来たものがどれだけ、現実的な道具としての目的に叶いうるかということは、まったく保証してくれないのです。そこを保証するのは、認識、です。

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熱心に作っていたら写真を撮り忘れてしまったのですが、バッグのマチをつくったところはこれ。


キャンバスバッグのところでも書きましたが、この帆布は三号帆布という、普通はバッグには使わないくらいの厚手のものです。

しかし厚手なだけあって、糸の太さも相当なもので、帆布を切り出したそばから、いきなり1mm以上の太さの糸がほつれてきたのには少々焦りました。革素材を扱う時とは違った心配りが必要です。

革細工で1mm変わると、縫い目も変わってくるだけに型紙も作りなおさなければいけなくなりますので。結局、ミシンでほつれ止めをして、事なきを得ました。

◆◆◆

続いて取っ手。


意匠を合わせて、ペアであるG1と同じようなものを作ります。

取っ手の構造はバッグにとって重要な部分ですが、これはあくまでも自転車バッグですから、やはり「過ぎたるは及ばざるがごとし」で考えてゆかねばなりません。

素人意見だと、せっかくアルミを加工できるのだから取っ手の中にもアルミを入れてはどうか、という意見が出てきそうですが、世のバッグにそういうものがほとんどないことにも、それなりの理由があります。

これはわたしも試してみたことがあるのですが、ひんぱんに握ったり駆動する部分に金属を巻いた革を入れると、革の裏側のざらざらが金属のエッジと擦り合わされて、非常に早く傷んでしまうのです。

同様に、縫いはしを金属でカシメてしまえばほつれなくてすむのではと思えてきたりもするのですが、これも、金属と革の接点だけに力を集中させることになってしまい、オーバーホールしても直せないダメージを他でもない革に与えてしまいます。

基本的に、糸は緩むもの、革は伸びるもの、ですが、だからこそ、全体としてはそのかたちを保ちやすい性質となっていることを忘れてはいけません。
台風が来た時に、街路樹はたわみ、しなってやり過ごすことができるのに対して、あれほど頑丈に見える電信柱は一度折れては二度と戻らないでしょう。あれと同じです。(これは現象的にだけでなく、地球の歴史をたどれば、という意味で論理的にも同じ、とみなしてよいものです)

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ただ固く丈夫にすればよいというわけではないのは、金属の材質にも関わってきます。

レザークラフトに使われる金属は、ほとんどが真鍮です。見た目にはシルバーのものも、真鍮にメッキをかけたものが多いようです。

わたしは以前は、革の質感と真鍮の素朴さがよくなじむので定番になっているのかと、見た目だけで判断していましたが、今ではこれは本当は、強すぎず柔らかすぎず、革を痛めにくい適切な強度を保っているからなのではと考えるようになりました。

それとは別の要因として、真鍮は金属のなかで、いきなり破断しにくい、酸化しにくい、といったバッグにとって望ましい側面もありますね。

今年は金属を扱い始めて、その奥の深さに驚いているのですが、こんな問題は思っているよりもたくさんの要素がからみあっています。視点を変えて人間の身体の構造から類推するとき、たとえば腸管の一部だけを見てとっても筋肉の収縮が異なる走行性を持った部位があり、互いが密接に関わりあうことで全体としての目的に見合ったはたらきをしていますから、単にバッグを作るにあたっても、素材が違えば紋切り型に答えを出せるはずもないはずのものでした。おしまいになってそのことに深く気付かされましたが、今では当初の見立ての甘さを反省するばかりです。

これは単純な例ですが、たとえば、ここに同じ太さの棒がある時、中身が詰まっている棒と中空のパイプでは、どちらが曲げに強いでしょうか?また、鋳物の金属リングと、金属棒を曲げて頭とお尻をロウ付けしたものとではどちらが変形しにくいでしょうか?

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これらの問題を論理的に解いたうえで実践的に使える認識にすることはいまだ叶わず、ですが、そういった観点を持ちながら、自転車バッグとしての道具観に照らして素材を選び、加工し、できたものがこれです。


コンチョの横のリング(丸カン)は、バッグの背面から前に出てきた革ベルトのほうにつけられているのですが、ここは鋳物のリングを選びました。

「ということは、さっきの問題は、金属棒を曲げてロウ付けしたものよりも鋳物のほうが強かったということかな?」と思われるかもしれません。

わたしも両方取り寄せて強度面を検討したのですが、ここでは見た目の綺麗さ、つまりロウ付け部分の盛り上がりの無さ、を選びました。

ただ、それだけで選んだわけではもちろんありません。道具としての機能を満たすかどうか、という原則はやはり満たしておかねばなりませんから。

ですからバッグ全体の強度が、内容物を入れて安心して持ち運ぶには信頼性がないとみなしたときには、当然に強度を増すことを選んだはずです。しかしそれよりも、ベルト以外の部分、たとえば口金がきつくもなく緩すぎもせずぴったり合わさっていること、帆布の強度が十分であることなどによって、バッグ全体の強度が確保されていることが確認できましたので、少々イロを出してもよいだろうと考えたのです。

またその他に、金属だけが強くても革のベルトが先にまいってしまっては意味がない、という判断もありました。
もっとも、鋳物(鋳造)だからといって、10kg前後の内容物と自重でそんなに容易くは参ってしまったりはしないのですが。

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唯一心残りがあるとすれば、とにかく部品がなかった、ということに尽きます。

いくつか選択肢があれば、その中から自転車バッグとしての目的に叶うもの(先ほど見てきたとおり、「最も強いもの」ではありません)を選べもしたのですが、たとえばバッグ天板の両サイドにある「手カン」(ドロップハンドル、と言ったりもします)という金具は、種類そのものが少くな、届いてみるまでネジの長さも径もネジの巻きもわからない状態でした。


しかも今回はどれも長さが足りず、しかもネジの巻きが規格外であったため、どうすることもできず、苦肉の策としてまだ使えそうなものを、革を削って埋め込むことにしました。


今回必要だった足の長さは、アルミ2mm+革2mm+革2mmでしたが、実際に使える足の長さは4mmほどしかありませんでした。いったいどんな用途を想定しているのかなんとも不明ですが、ここらへんは自分の足で部品を探すか、もしくは作るかせねばならないようです。ここらへんは、試作品の面目躍如ですね。

◆◆◆

口金の支点になる金属も、実は見つからなかったのでいまのところネジを使っています。


タブラーリベットという金具もあるようですが、ほかにももっと足長のカシメがあればなあ…という部分もいくつかありますので、これからも部品探しが続きそうです。

そういえば、この写真を見ていて思い出したことに、ベルト部に穴を空けようと思っていましたが、忘れていました。というより、何mm間隔で空けるべきかを考えすぎて疲れてしまいました。まあこのままでも機能的には支障はありません。他に穴を空けてもたぶん使わないので。同じようなバッグを作るときまでに決めねばいけませんね。

ベルトがやたら長いのは、自転車の後ろにつけるバッグだからですね。常用のバッグならもう少し短くしたほうが取り回しは良いでしょう。

◆◆◆

キャンバス(画板)バッグのときにはすっぴんの帆布を(くり抜かずに)こじ開けて通していた金具は、今回も同じ手法で実装していますが、裏面には当て革をつけて、これでもか、というほど丈夫にしてあります。


◆◆◆

自転車に載せたところを見てもらいたいところですが、日中になかなか時間が取れず、家は狭いときて写真がありません。

それは後日として、さいごに2枚ほど。


バッグ内は、A4の書類を少し曲げれば入る程度です。常ぼんぼん太ももに当たってきます。これらもやはり、自転車バッグという道具の目的に規定されてのものです。常用のバッグならもう少し大きく、薄いものの方がいいでしょう。

いま創作活動を学ばせてもらっている先生がとても気に入ってくださっていて、これと同じデザインのもっと大型のものを作ってほしい、これ持って海外に行きたい、とおっしゃってくれているのですが、先述したように市販の金具では大きく力不足であるのが大問題です。そこが解消されればぜひ、とお答えしているのですが。


いちばん最後は、初代G1と並んで。


どちらも試作として作ったもので、左のG1を作ってから2年経って出てきたのが今回のG1Rです。

進捗としてはまあまあ、というところでしょうか。

今回の収穫は、金属単体・革単体・帆布単体という問題ではなく、それらが組み合わさった時に全体としてはどういう構造になるのがもっとも相応しいのか、という問題が、想像していたよりもずっと大きなものであることがわかったことです。どれかを丈夫にし過ぎると別のところが痛み、といった「あちら立てればこちら立たず」があちこちで連鎖的に起きてくるため、「過ぎたるは及ばざるがごとし」のための弁証法がどうしても必要とされてきます。

探究がより深まった暁には、すでにある口金のあり方をはじめ、「バッグを開ける」、「バッグを運ぶ」、「バッグにものを入れる」ということなど道具としてのありかたの根本そのものから見なおしてゆかねばならなくなってくるでしょう。これはわたしの探究の仕方のせいかもしれませんが、ここまで来るとやはり、最も大きな問題は表面上のデザインにあるのではなくて、扱う素材とそれに相応しい構造をいかに正しく認識するか、という一点に収斂してゆく必然性があるように思われます。

道は未だし、前進あるのみです。


(了)

2013/05/30

本日の革細工:自転車リアバッグG1R (3)

(2のつづき)


前回までは、久しぶりの更新ということもあり、なかば無理矢理(?)、ひろく芸術一般における創作活動の過程的構造についておさらいしてきたのでした。

この把握なくしては、この前に質問をくださった方のように、道具や作品の作り手の立場に立ち、我が身に繰り返すかのごとく創作過程をたどるということなど夢のまた夢になってしまうものですから、ものづくりに関わる方や、どんな業種でもひろく創造的な仕事をしようと考えている方はぜひに押さえておいてもらいたいと思います。
(参考:「本日の革細工:キャンバスバッグ」についてのお便りをいただきました

表現というものの過程性をふまえておくということは、直接的に創作活動にたずさわっている人たち以外にとっても、非常に有意義です。

たとえば、一般には芸術・創作活動とは無縁と思われる武道やスポーツの世界も、やはり大きなくくりでみれば表現の問題が出てきます。

表現一般論を押さえておけば、そういった現場での指導において、何回教えても教えたとおりにできない人間を目にしたときには、「お前は何回教えても一向に上達しないな、やる気がないのか?」と言う前に、せめて、指導者自らが、その被指導者の「どこに」問題があるのか、という観点を持つべきであることがわかります。

ここで「“どこ”とはどこのことだ?」という向きには、前回までの記事をもう一度読んでもらわねばなりませんが、整理して言えば、まずい表現が結果として出てきている原因は、大きく分けて二重の構造を持っているということです。

武道やスポーツの場合、一見すると技術の問題ばかりが目につくために、多くの人は、うまくいかない理由を技術の面だけに帰しがちなのですが、わかっていてできない場合と、自分のわかっていなさ加減がわかっていない場合には、指導内容が大きく違っていてしかるべきなのです。

技や走法の像が正しく認識として受け止められていない場合に、「何回教えてもお前はダメだな!」と言ったところで、当人にとっては自分の認識そのままの表現ができていると思われているのだとしたら、当人の中では「何故これでダメなのだ、言われたとおりやっているのに!」という思いが強まるばかりでかえって逆効果ですらあります。

これはつまり、被指導者の失敗の原因が技術にあるのか、認識にあるのかという問題であるわけですが、これを見抜き特定し導いてやらなければならないのは、当然に指導者の仕事です。ここをハウトゥ的にしか考えられない場合、「3回教えてもダメなら叱りつける」といった、現象一辺倒・紋切り型のルールや罰則を設けてしまいがちになっているはずです。

ほかにも、表現一般論をふまえておけば、実際には悪筆な人ほど自分の字に自信があるのはなぜか?といったことに類する問題もあっさりと解けるものです。ああいった問題の構造を見ようとすることなくいきなり当人の性格や気質だけに帰するのでなしに、やはり認識と表現の持っている構造に立ち入って検討しなければ、まともな実践になりようもありません。

大事なのは技であり表現であり実践です。それは間違いないのですが、それを高度にしようとするならば、直接に技術一辺倒の努力を強いるのでなく、急がば回れをして、当人の認識がどのようになっているかを手がかりに、そこをこそ導いてやるべきなのです。やや極端な例ですが考えてみてください。もし認識をつくる頭脳そのものにいかんともしがたい器質的な欠陥がある場合、たとえば色盲の人間に、「お前はなぜキュウリを赤く塗っているのだ、色も見えんのか!」と「技術的にのみ」指導するとどうなるのか、と。ですから、技術を高度にしてやりたいとばかりに技術だけを直接磨かせるという姿勢から生まれるのは実のところ、「天才の選別」のみ、というあまりに寂しい現実があるのです。

この前の記事のおしまいで、わたしが自分の料理を「まずい」と言ったのも、10人に聞いたら10人がまずいと述べたとかそういうことではなく、自らが「こうなったらいいな」と思い浮かべた認識のとおりの表現になっていない、ということ、つまり認識と表現がぴったり一致しないという客観的な関係を指してのことでした。ですから手料理をうまいと言って食べてくれる学生さんの感性にケチをつけているわけではありません。見ている構造が違うわけです。

ここでの記事では、理解を進めてもらうためにたとえがたくさん出てきますから、論理がまるでわからない人にとっては、そのことが裏目に出てかえって雑多な印象になっているかもしれません。しかし、ひとつの記事の中でお話ししていることはすべて、論理的に同様のことを述べているので、そこをこそ読み取っていただけると嬉しく思うところです。これらはほんの、入口中の入口なのですが、それですら常識になっていないことを否が応にも思い知らされる実践が世に蔓延っている現実を見るのは、あまりに寂しいものですから…。みなさんの「ものごとを見る目」の高まりを願っています。

でははじめましょう。なにを隠そうこの記事は、バッグのお話なのでした!

◆◆◆

さて今回のバッグを作るきっかけになったのは、いまわたしが芸術を学んでいる先生が持っておられた口金つきのバッグを見たことでした。

わたしはそれまでは、口金つきのバッグというのは、肝腎の口金部分をどこかで調達して来なければどうにもならないと思っていたもので、市販の口金に合わせてバッグを作る、という作り方しかないものと思い込んでいたのです。

口金とはこういうものですね。

イタリア製の口金。
わたしがよくお世話になるCountless-Riverさんから引用。

ところが、その先生のバッグがとても小ぶりでしたから、「この口金はどこで買ったものですか?珍しい大きさですが…」と聞いたのでした。

すると返ってきた返事が、「これも作るんですよ。アルミを曲げてね」というもので、一瞬「エッ!?」となったものの、帰りしなに、「そう言われてみるとそうか…なんで思いつかなかったんだろう」と思い直して、早速アルミの板を買い求めたものでした。

わたしは自分のために創作活動をしない(なにせオーナーと議論しながら作ってゆくのがいちばんの楽しみなので…)ために、ささいなきっかけでもこれ幸いと、「口金も自分でつくる」というところを起点にして、やはりというか、自転車用のバッグを作る、という計画が始まりました。

◆◆◆

というわけで、届きました。


アルミの板です。


これに百均ショップ(年に数回しか行かないのですが、なかなか面白いですね。ちょっと加工すれば良い素材や道具になりそうなものがいくつかありました)で買ってきた麺棒を膝の上であてがって…


曲げました!

これに電動ドリルで穴を空けるだけです。

やってみると、思っていたよりもはるかに簡単で、今度からはもう、「作れる技術が揃ってから作るものを考える」のでなしに、「作りたいものを想像してから技術を考え」よう、と思いました。

制限というものは、客観的な条件のように思えても、実は主観的な思い込みによるものでしかないことがありますね。

◆◆◆

それに加えて、今回は金属のほかに、あまりものの帆布があるというので、これも譲っていただいており、これも素材として使ってみることに。

素材が決まったところで、今回のバッグの全体の構成を考えるにあたっては、前回の革細工記事で言っていたようなことをはじめに念頭に置きました。

「バッグが道具であるからには、『ものを入れて運ぶ』という目的に相応しいだけの強度を、『構造』のところで実現しておくべきだ」、というようなことがそれですね。

いくら帆布が丈夫だと言っても、自転車に載せるバッグであるからには、5kg以上の荷物を積むわけですから、走行中に中身が暴れれば危険になりますし、自転車を降りて持ち運ぶときにもすぐに型くずれするようでは気兼ねなく使えません。

このことを考えた時に、荷物の重量が直接かかり、また自転車のキャリア(荷台)に直接触れることになる底面部については、革を貼り合わせて強度と剛性を確保しようということになりました。

それに加えて、口金の部分も革でアルミの板を包んだものになりますから、出来上がったものを正面から見たときには、ブラウンの革がベージュの帆布を上下から挟み込んだようなものになるはずです。

◆◆◆

こうしておおまかな全体像が見えてくると、次にバッグの顔となるフェイス部を考えてゆきます。

今回のバッグは、G1Rというだけあって、フロントバッグである試作G1と対になるものとして作ることが決まっているので、手元に置いてまじまじと見つめます。

G1は自転車全体の顔になる部分なので、動物の顔を抽象化したような、下向きに尖ったデザインになっています。

左のバッグがG1。
単に第一世代=Generation 1の略です。

それとは逆に、今回は自転車全体では後方、おしりの部分に位置するバッグですから、上向きに尖ったデザインにして、「これにておしまい」という印象を与えるものが相応しいということになります。

今回は試作バッグですから、それを、ちょっとやりすぎかな?というくらいに強調したものを考えました。

それが、以下のフェイス部でした。


前にリアバッグ(G2R "BLACK KIWI")を作った時の経験上、リアバッグはフロントバッグよりも横幅がとれることと、後方に位置づけられることから、少々デザイン的に入り組んでいてもうるさくなりにくいことから、コンチョを含めた3つの円形をあしらっても大丈夫だろう、ということになったのです。

わたしとしては、上の写真のように3つの円を並べたとき、大好きな動物である梟の眼と鼻のように見えるなと思い、俄然創作意欲が湧いてきたものでした。


(4につづく)

2013/05/29

「人を動かす」一般論はどう引き出すか (4)

(3のつづき)


ノブくん:ではこれではどうでしょうか。
「人の心を動かす為には、相手に自分の考えを相手自身に選ばせる」事。



わたし:さきほどの指摘をふまえて考えてみたようだが、考え方の筋道が違っているので、かえって答えから遠ざかっているように見える。

先に、4つの概念を一般化すべきだとしたところを、行動の前には認識が来るはずだとばかりに、「人の心を動かす」としているが、動かさねばならないのは、心だけだろうか?本書は、他者に自分の意にそぐうようなかたちで、実際に行動してもらうことを主眼に据えているようだが。

もうひとつ、目的論に相手の主体性を加味したようだけども、結果として表現が意味不明になってしまっているのは残念だ。細かな話になるが、「相手に自分の考えを相手自身に選ばせる」という表現を読者の立場になって読んでみると、文中の「自分」ということばが、「自分自身」なのか「他者自身」なのかが不明であるので、何度も読み直さなければ意味がわからないものとなってしまっている。もしこの内容で良い場合にでも、「自らの考えを相手自身が発想したかのように思わせる」とすべきだろうね。



ノブくん:うーん…(しばし熟考)。



わたし:…ちょっといいかな。いま君は、<一般化>というものの難しさを身をもって感じているね。この本は、一読すればわかるとおり、内容については、中学生でもひとおりの読書感想文を書けるようなものだ。ところが、一般性を引き出せと言われると、それがなかなかできない。

もし仮に、わたしが今答えを出してしまったとすると、君は、「なぁんだこんなものか、当りまえのことじゃないか…」と感じることと思う。実際に世の人がそう見なしているからこそ、研究職であってもその努力をしていないわけだが、君はそれと同時に、「当りまえのことなのに、それができないなんて情けない…」と感じられてもいる。ここからも、論理化というものが、紋切り型にできる大雑把な要約、というレベルのものでは決してないということがわかるね。この経験を身をもって体験して、自分のわかっていなさ加減をよくわかっておくということは、大きな前進であると捉えてほしい。

さて、論理というものが、誰かに教われば直ちに使いこなせるようなものでは絶対にない、独力で身につけ高めてゆかねばならない技であることをわかってもらったうえで、もう一度初心に戻って整理してみよう。

いま君は細かなところに深入りしすぎているようなので、まずはマインドマップを見て、しっかりと全体像を捉えることが大事だ。そうして考えてゆく。



そもそも、いま考えているのはこの本の一般性だけども、この一般性というのは、あまりに個別的すぎて「この本は、あの州の誰々さんとこの州に住む誰々さんと…のこれこれの経験について書いてある」としてはもちろんダメだが、逆にあまりに抽象的すぎて「この本は、人間の心理について書いてある」としてもダメになる、ということを押さえてほしい。

あくまでも、この本の内容をまずは正面に据えて、それを余さず表現しうる一般性を引き出さねばならないということだ。この<一般化>というのはそういう難しさがある。であるから、巨人の肩に乗る、つまり、看護一般論を参考にすべきだと言ったのだったね。

ここで初心に戻るというのは、まずは『人を動かす』の全体像をしっかり捉えること。それと同時に、その内容を看護一般論に置き換えてみること、ということになる。



ノブくん:初心に戻って…たしかにそうですね。なんだか、自分ではちゃんと考えているつもりなのですが、気がつくと細かなところを熱心に読み込んでしまうようなところがあって、頭の中がごちゃごちゃしてきて余計にわからなくなるようなことがよくあります。同じ問題を考えるときにもあなたがすぐに答えを出せるというのは、その「頭がごちゃごちゃする」という無駄な回り道をしていないからだとわかってきました。



わたし:それはとても大事な気づきで、いまひとつの大きな論理が浮上しつつあると考えてよい。いまわかりつつあるとおり、問題意識というものは、毎瞬毎瞬しっかりと持っておかねば、すぐに霧散してしまうものだ。論理的に対象に向き合うということは、一般的に言って、ある原則に照らし「続けながら」対象を見る、ということだから、そのことも論理に関するひとつの技化、ということになるね。小さい子供に「このコップを持っていてね」と言った時、外でクラクションが鳴ったりカラスが視線を横切ったりするだけでも落としてしまうでしょう。それと同じだね。



ノブくん:僕はまだ、問題意識を強く持っておく、持ち続けるという、いわば把持する力がまだ足りないのですね。目的意識を強く持ち続ける、迷ったら初心に戻る、ということを意識しながらやってみます。

(目次を読み返す)

…まず、各4部の目次(人を動かす三原則、人に好かれる六原則、人を説得する十二原則、人を変える九原則)をおおつかみながらしっかりと、具体的な像を浮かべることで理解を深めながら読み返してみました。

そのうえで、あなたがさきほど指摘した、4つの概念の総合が必要だということを考えて、「人に強い主体性を持って行動してもらう」という、対象論と目的論についての一般性を出しました。

そうすると一般性は全体として、
「人に強い主体性をもって行動してもらう為には、互いにとって益のある選択肢を相手自身に選ばせ行動する」
となるような気がします。



わたし:良くなったね。さっき2回の迷走が、急がば回れの遠回りになりつつあるようだ。ただ「選択肢を選ばせる」となると、意味を限定しすぎているように思う。



ノブくん:ではこれでどうでしょう。
「人に強い主体性をもって行動してもらう為には、好きなものを与えて、進んで行動してもらう」



わたし:内容はそのとおり。ただ表現はどうだろうか。看護一般論はもっと簡潔に書かれていたように思うけども…。



ノブくん:…たしかに。
「人に強い主体性をもって行動してもらうよう、相手の欲求を満たす」



わたし:これで合格点はあげられるでしょうね。この一般性を仮説として「念頭に置きかつ置き続けて」、本文を読み返してみて、どの個別の経験もがこの一般性で鮮やかに解けることを確認してほしい。そうする中で、細かな字句を修正するのもよいでしょう。


◆◆◆

以上が、ノブくんとわたしとの議論でした。

ただ念を押しておかねばならないことは、ここで出てきた一般論は、まだ仮説の段階であるということです。

看護一般論を見ると、そこには<対象論>、<目的論>、<方法論>があり、実際に『科学的看護論 第3版』中で、それら各論が個別に展開されてゆき、さらに人間観については『ナースの視る人体』などへ…と大きく展開されてゆきます。

ここで大事なのは、これほどまでに基礎が科学的なものとして据えられているからこそ、それを揺るがぬ土台として、その後の展開が破綻なく、しかも体系性を保持しながらのものになっているということ!です。これが、弁証法という論理の凄まじさなのです。

ですからわたしたちのすべきことは、『人を動かす』についても、各章を個別に書きだすまではいかなくとも、各論について一般的な説明をしっかりできるようにしておくことです。

たとえばノブくんの現段階での一般性を例にあげると、その対象となるのは「人」と「相手」なのですから、本書ではその対象となる「人」を、どのように見ているか、ということを<対象論>として説明できねばなりません。

筆者であるD.カーネギーは、人というものをどう見ていたのでしょうか。理屈一辺倒で議論を好み、論理的に説得すれば言うことを聞いてくれる人物だと見なしていたでしょうか?

そのように、各論がどのようなものになるかを考えてみてください。簡潔な書き出し方でけっこうです。

この進捗具合だと5月の末を少し過ぎる頃になってしまうと思いますが、学生さんの出してきた答えを紹介して、次の課題につなげてゆくことにしましょう。

言うまでもないことながら、この『人を動かす』から一般論を引き出すことによって培ったはずの<一般化>という論理能力は、続編である『道は開ける』に適用してゆくことになりますので、答えを先に知ってしまったからといって、自ら考えることから逃げないようにしてください。

そうでないと、ここをはじめ個別に叱られまくっている人たちだけが大きく実力をつけてしまうということにもなりかねませんので…。身についた技は、どんな対象に向き合った時にでも即座に、瞬時に発動するものであるだけに、その努力を怠ってきた過去を持っている人物からは、「奴は天才だからああいうことができるのだ」と見えてしまいがちです。

しかし、こういうものは、天の才などでは決してありません。
これは認識における技なのであって、さらに言えば、技と言うからには、それは自らの努力によって磨いてゆくものであることはまったくの当然、なのですから。


(5につづく)

2013/05/28

「人を動かす」一般論はどう引き出すか (3)


前回の記事では、


ひとりの学生さんからもらった解答を検討してゆきました。

あの文面を読んで、なかには「そこまで言わなくとも…概念を操作するという観点はそれなりに意味のあることだとあなたも認めるのだから、そこから論理のレベルを高めるという方向性で力を延ばしていってもよいのではなかろうか」という意見も出そうです。

しかしどうしても、これではいけないのです。

技術の習得過程を考えるとき、単にキーボードを打つくらいであれば、正しいタッチタイピングを学ばず、両手の人差し指2本でキーを見ながら打ち込んだとしても、さほどの差はでません。

しかし、現実にある問題を正しく解くための論理を習得するという、極めて高度な技となると、土台こそが最も肝腎となるのであり、細かな踏み外しをいくつかしていても結論が合っていれば問題ないとばかりに、がむしゃらに我流の努力を続けるだけに汲々としてしまっては、完成する技術もそれなりのものにならざるをえない、ということになるのです。

完成した犬かきで、大洋を泳ぎ切ることができるか?犬かきを土台としてその延長線上に平泳ぎやバタフライを位置づけて良いか?と考えてみてください。

同じ頃に研究を始めた、将来有望と見なされていた同僚が、現在ではあまりにも悲しいレベルの実力しか持ち得ていないという現実を横目に見て、「嗚呼、てっぺんまで辿り着かない道もあるのだな…」、と我が身と重ねるように実感する寂しさと恐ろしさを、若い学生のみなさんは当然にまだ自分の眼では見ておられないわけですが、ここだけは、なんとしても理解しておいてもらわねばなりません。

◆◆◆

たとえば、学問の段階には到達しなくてもよい、思想的な段階にさえ達していればよいというのであれば、地球が太陽の周りを回っているのか、それとは逆に地球が中心であるとみなすべきなのかは、「見方の問題」(!)ということになりかねません。

もっと例を出せば、自分の乗る電車が走っているように見えるのは、実は、電車が線路の上を走っているのではなく、自分の乗る電車を中心にして大地が滑っているのだ、と言ってもかまわないということになりますし、火をつけたスチールウールがある気体の中でよりよく燃えるということも、「火の精が元気になったから」だと考察してもよいことになります。

子どもたちがこういう発想をするときには、なにも頭ごなしに「ナンセンス!」と決め付けなくてもよいのですが、もしみなさんが、科学的に、つまり唯物論的に専門分野の研究を進める際には、こういった考え方が間違っているということを指摘するだけでなく、「なぜ間違っているのか、正しい考え方とはどういうものなのか」を鮮やかに説明できなければなりません。

これを何が保証するか?というのが、学問の土台となる基礎力、というものであるのです。いくら知識をつけても考え方がおかしければ、ありもしない答えにたどり着いてしまうのですから、ここでもっとも重視すべきなのは、自らが把持する世界観と、対象を照らし発見事実を組み立てる論理、ということにならざるをえないのです。わたしはそれを身につけてもらうためにこそ、これだけ必死になっているのです。

以前に、「人間にも生物と同じく集団意識というものがあるので、それを考察の対象とすべきだ」というある教授のアドバイスを受けた学生が困り果てていることを見て、その考え方の基礎がどう誤っているのかを指摘した記事を書いたことがありました。
何を隠そうあの指導教官というのは、その道では超一流とされている人物です。ですから、どこそこの権威の発言だから踏み外しなどないということはない、と考えてみるべきなのであり、基礎的な踏み外しは応用面でカバーすればよい、という発想は持ってはいけない、というのです。

自らの歩みのうちに、観念論的な踏み外しがないかということを毎瞬毎瞬注意しておく注意力と、自らの眼の前にある対象のうちに、いまだ把握しきれぬ弁証法的な構造が潜んでいはしないかと確認を重ねる集中力というものを、一般常識レベルのままで放っておいてはまともな研究はできません。

少々体つきがよく喧嘩では負けたことがないからといって、その持ち前のケンカ殺法を武道の現場に持ち込んで接木しようとしては、やればやるほど駄目になるのですから、まずはどんなに苦しくとも、自らの持ち前の自然成長的な天才性をいったん棚上げする、ということにいちばんの努力を払わねばなりません。

どんな分野についても、文化レベルの高度な段階における探究にあっては、持ち前の条件の良さが常識レベルの衆目から評価されていればいるほど、最終的にはかえって自らの足を引っ張ることになるものです。

◆◆◆

さて前置きはこれくらいにして、今回はより議論の進んだ段階の解答を検討してゆきたいと思いますが、前回引用させてもらったOくんは、実際に面と向かって議論しながら一定の答えにたどり着いていますので、別の人の解答を見てみたいと思います。

以下は、ノブくんとの議論を討論形式に書き起こしたものです。

◆◆◆

ノブくん:僕が思うに、「人を動かす」一般性とは、
「人を動かす為には、相手に関心を持った上で話を聞く」、ということです。



わたし:おさらいしておくと、看護の一般論とは「生命力の消耗を最小にするよう生活過程をととのえる」であったね。それを参考にしながら、今回の本の内容をそう整理したということは、この本は、対象である「人」を「動かす」ためには「相手に関心を持った上で話を聞く」という方法を採用すべきだ、ということを述べている、と理解したわけだね。

では、この本の全体像をマインドマップとして整理したものをいっしょに見ながら、2つ反論をするので反駁してみてほしい。


まず、ひとつめ。論理のレベルの高いところから聞こう。
(※ここでの「論理」は「抽象度」という狭義の意味。)

タイトルにはたしかに「人を動かす」とあるので、ひとまずは一般性としてこれを使ってもよいと思う。ところが、実際に本文を読んでみると、「人を動かす」のほかに、「人に好かれる」、「人を説得する」、「人を変える」とあるようだが、これらを「人を動かす」という一語に要してしまってもよいだろうか?



ノブくん:(確認し考えて)…たしかに、そうですね…



わたし:その、「たしかにそうだな」という感想(=感性的認識)を、理性的に振り返ってみよう。
一般性をそのようにすると、君は暗黙の前提として、以下のように整理したことになる。図式化しすぎて形式論理のようになってしまっているきらいはあるが、まずは単純に考えてみてほしい。


この場合、「人に好かれる」、「人を説得する」、「人を変える」という概念が同じレベルのものとして揃っており、その上位概念として「人を動かす」が位置づけられているね。これでよいだろうか?



ノブくん:…いえ、どうも違うような…。今確認してなんとなく思ったことですが、この4つは論理のレベルが異なるのではなく、同様のレベルの事柄を指しているようにも見えます。



わたし:ではそれをまた単純に図式化してみると、こうなるだろうか。




ノブくん:ええ、そうです。



わたし:これらの4つの概念が同じレベルにあるのならば、どれか一つを代表として一般性とするのではなく、これら4つの概念を総合して上位概念のかたちで一般化しなければいけなくなってくるね。

そこに何が入るのかはまだわからないが、このようなかたちにしておこう。




ノブくん:はい、わかりました。ここで質問なのですが、この「???」に入ることばは、この本の部題や章題、また文中から抜き出すべきなのでしょうか。



わたし:文中にあるのならばそれでよいけれども、ふさわしいものがない場合は自分で考えて一般化すべきだろうね。



ノブくん:わかりました。



わたし:よいでしょう。では2つ目の問題に移りましょう。
君が考えた一般性を見ると、その方法論は「相手に関心を持った上で話を聞く」ということになっている。
しかし問題は、相手に関心を持てば人は動くものだろうか?、ということだ。

もちろんこの判断は、わたしたちの一般常識ではなく、あくまでも本書に照らして見てゆかねばならないが、そう考えるとなおさら、相手のことをよく知るだけでは自分の思い通りに行動してもらえる保証がないとみなすべきではないだろうか。


(4につづく)

2013/05/20

「人を動かす」一般論はどう引き出すか (2)

まさかの続編です。


これくらいは解けるかな?と思って出した問題だったのですが、思いのほかみなさんを悩ませているようで、幸い。

これはもちろんイジワルを楽しんでいるというのではないのですが、まともな論理を持って実践に取り組みたい人にとっては、必ず通らなければならないところですので、つまづきの石が見つかってよかった、ということです。

加えて言えば、こういうところで自ら躓いてみて、正しい姿勢と考え方へと歩き方を変えることのできた人のほうが、あとあとずっと延びますので、「なるほど、それならこれではどうか?」という答えをお持ちの方は、ぜひとも見せてもらいたいと思います。

さてこの記事は、以下の記事の続きとして書かれていますので、同じく問題に取り組みたい方は目を通しておいてください。

1. 文学考察: 人を動かすーD・カーネギー 1-1

2. 「人を動かす」一般論はどう引き出すか

3. この記事

◆◆◆

以下の文面は、Oくんからいただいたものです。
この問について自分なりに回答を考えてみました

 この課題図書のタイトルは『人を動かす』であり、この本のうち、例として挙げられている第二章は『人に好かれる6原則』である。
 
 まず、この書物全体を読んでみた時に、「人」を対象として、「(人を)動かす」という目的について、人を動かすための方法論や、その方法を導くための認識のしかたについて、筆者が言及したい、あるいはしているであろうということを念頭におくべきである。次に、例として挙げられている、第二章では「人」を対象として、さらに「人に好かれる」ことを目的としてその章の内容が構成されていると考えられる。しかし同時に第二章は、本全体において表現されるべき「人を動かす」という目的に対しての「好かれる」という方法論としての性格を直接的に持っているといえる。
 
 そこから第二章の中で記述されている、「誠実な関心を寄せる」、「笑顔を忘れない」、「名前を覚える」、「聞き手にまわる」、「関心のありかを見抜く」、「心からほめる」の6つの原則のうち、例として「誠実な関心を寄せる」について考察していくと、
 「誠実な関心を寄せる」ということは「(対象となる相手の行動などに)誠実な関心を寄せるという方法によって対象とした人に好かれるという目的を達成する」ことを第二章の中の一つの要素として示していると考えられる。つまり、この一つずつの原則の中には目的を「人に好かれる」とおいたのちに、対象として「好きになってもらいたい相手」に関することがらが内包されており、この原則に書かれている行動自体が方法論として示されているのではなかろうか。そして更に、その方法論が文中においては目的となるという構造をとると考えられる。
 そこで「人」を対象にして「動かす」という目的について記述することを「この本において一貫する」(=この本の一般性とする)ならば、この本では本の中で区切られている章の表題は「人」を対象にして「動かす」という目的をもち、章の表題の内容そのものが方法を示すという形式は一貫している必要があるのではないだろうか。
 そして章の中で区切られている節では対象を一貫している必要があり、目的は章の表題で示されている方法論が目的として降りてくるべきである。そして節の表題そのものが、目的の達成のための方法論を示すことを一貫させる必要があると考えられる
 その上で本の文中にて節によって対象にし、かつ節の表題によって示された目的達成の方法を記述するという構造を一貫する必要がある。
 つまり本の文章ごとに記述された方法論によって、節の示す目的に到達した後に、目的と同時に方法論としての性格も内包する節が集まって章の示す目的達成の形に変化していき、章が示す方法が一冊の本として集約された時、その章それぞれの対象と目的は一貫していなければならないのではないだろうか?その構造をとることによって、一冊の本の目的は一冊の本に内包された世界の一貫性=一般性として機能すると考えられる。


 個人的に感じたことなのですが、本の構造を読み解く際には目的が方法として存在する同一性と、文章の塊や節や章が集まり、変化することで目的が方法に、方法が目的に変化しつつ積み重なる構造を見つける必要性があるという感触がありました。
 長文となり、申し訳ありません
◆◆◆

読者のみなさんにおことわりしておきますが、この人は、論理というものに触れたくともまったく触れられずに、アタマの中が実に混沌としたままそれが混沌状態であると自覚できずに育ってきたという鈍才ではなく、むしろ論理的にものごとを考えたいと祈念し、事実あるところまではそうできている人です。

しかし弁証法が教えるとおり、あるものはそれが度外れに極端なかたちで出てくるときには、かえって害をもたらし誤りとなるという対立物への転化が起きるのであり、実にこの回答は、その典型例となっています。

それがどう出てきているかは、まさにみなさんが以上の文面を「読んで感じられたとおり!」ですが、今回の誤りは、正しく発揮されるならば大きな力となりうるものを秘めているだけに、ぜひともまずは、正しい姿勢を身につけて、正しい考え方へとつなげていってもらいたいと思い、一筆を認めました。それが、以下のお返事でした。

◆◆◆

◆わたしからの返事

もともと持っている論理力が、あらぬ方向に発揮されてしまい、かえって大きな誤りを導いているようである。
はからずながら良いケースであると思うので、勝手ながらほかの読者とも相並んで、正しい姿勢と論理の使い方というものを考えてゆきたい。

まずはじめにことわっておきたいのは、以下の返事について、Oくんの今年一年における本質的前進を願って、そのためにこそ書いたということである。
そのため、苛烈な表現に見える箇所もあろうが、ウッとなる感情をいったん棚上げしたうえで、学問研究・人格の向上をぜひに、との思いが込められていることを読み取ってもらえると嬉しく思うところである。

さて、いただいたメールの文面を読んだとき抱いた感想というのは、「これは何を言っているのだ?」というものであった。

一般的な読者や、ほとんどの研究者にとってはこの感想がすべてであり、彼らの場合には、「わけがわからない、書きなおせ」でおしまいとなるところであろうと思う。

それでも、と、これが何かを理解したという思いに駆られて書かれたものであるということ、つまり、これが形式だけは整えられているが内容のない空文ではないはずである、というところを信頼して読み進めると、このメールの内容は、「一般的な書物の構成について考察されたもの」であるということがわかる。

ところが問題は、この文章が、たしかに『人を動かす』という書物を例に挙げて述べられているにもかかわらず、途中からその内容についての言及はどこへやら、いつのまにか「構造」や「構成」そのもののみを考え始める、という落とし穴に陥っているところにある。

これは一言で言えば、構成、構造、方法、目的、といったそれらしい言葉を使った言葉遊びの域を出ないのであって、観念論的な衒学、のそしりを免れぬものなのである。



たしかに学問においては、概念や法則というものがあり、また必要な場合にはそれらが組み合わされたりもするのだが、もし唯物論の立場に立とうと思うのであれば、これらの操作は必ず、現実の問題、実践の問題に照らして行われねばならない。このことを、深く胸に刻んでもらいたい。

もし仮に、方法と目的との転化といったものを法則性として示すのであれば、「それを使えば」、本書がいかに鮮やかに読めてゆくのか、ということを考え、提示せねばならない。今回の課題について言えば、このことをいくら振り回したとしても、課題の本質から遠ざかるばかりであろう。


まずは、大きく姿勢を変えることである。

今回の課題をおさらいすると、看護の一般論が「生命力の消耗を最小にするよう 生活過程をととのえる」であるところを参考にしながら、『人を動かす』の一般論を引き出す、ということであった。

であれば、これこそをまずは解こうとするべきなのである。
それが解ける過程において、様々な法則性が見つかるのであれば、それは認識の中に持っておいてもよいのであるし、折にふれて確かめて磨いていってもよいのである。

さてそういう姿勢で、看護一般論を参考にしながら「人を動かす」一般論を引き出すときには、まず全体の形式的なイメージとしては当然に、「○○が、××するよう □□する」というかたちになるはずである。

本書をざっと一読してから○○に何が入るのかと考えたとき、「植物が」とか、「弦楽器が」などと考える人間はいないはずであろう。
これは本書のタイトルを一瞥してもわかるとおり、である。

さてしかし、本書のタイトルを、安直にここに入れてみるとどうなるか?
それはおそらく、「人が動くよう□□する」となる。

ところが、本書の中には、ほかにも「人に好かれる」、「人を説得する」、「人を変える」などの原則が書かれていることをふまえようとすると、これらは直接的には排他的になることがわかってもらえるはずである。
これを、これまた安直に「人が動き人に好かれ人を説得でき人を変えられるよう□□する」としてしまっては<一般性>にならない。

であるから、ここで採用すべき考え方は、「これらそれぞれの表現を一旦崩したのちに、その内容をすくい上げ、一言で表現するとすればどうなるか?」ということ、なのである。

もしある本を読んだときそこで扱われている対象が、「水を作り」、「魚類に餌をやり」、「色揚げをする」などにあると考えられるときには、この本の対象は「鯉が」などとするのが相応しいであろう。
直接の章題を見ても「鯉が」などと出てこない場合でも、内容をすくい取ったればこそ、この概念を導けたのであるから、これを<止揚>した、というのである。

これらのことをふまえて、本書を正面に見据えて取り組んでもらいたい。



以上の内容をわかってもらえるであろうか。

論理は確かに何を置いても重要であるのだが、これは、論理をそのままにあれやこれや解釈したり組合せたりするということとは決して違う、のである。

論理というものは、それを念頭に置きながら目の前の現象を考えてゆく時に初めて、現象の根底にある、直接目には見えない構造が抜き出せるものであるし、そしてまた、その引き出した構造を認識の中に持って新しい現象に適用してみることで、さらに論理を高めてゆけるものである。

しかしここには必ず、現象・実践が媒介とされていなければならないのであって、論理そのものから直接的に新しい論理を展開する、ということでは決してない、のである。

それなのにこんなどうしようもない考え方を、世の研究者や思想家はあまりにもの手抜きをして採用しようとするから、主観と客観の弁証法的統一などなど、わけのわからない空文が飛び交う始末になるのである。

一つの概念は、歴史的な生成と発展の過程を持ちそれらの必然性があって現在の形態をとることになってきているものであるのに、それらの歴史的必然性と概念のあいだの区別と連関をまったく無視して、質的に異なる概念を直接的に同一のものとして考えることを促したとして、一体人類文化がどう進められるというのか?

一般大衆を屁理屈で騙して目立ったり飯を食うということが文化を進めることなのだというなら、もはや問答無用といったところであるが…。

こういったものが意味のない空文であると断言するのは、この論理?とやらをいくら使ってみても、現実の問題を何ら本質的に解決できないし、考えを進めることもできない、という一事によってである。

学問の歴史を振り返れば、人類文化の誇る哲学者のほとんどは観念論の立場に立った、というよりも時代的な必然性によって立たざるを得なかったのであるが、彼ら観念論者においては、そういった空文を振り回すことを決してしなかったのみならず何よりも嫌った、ということを忘れてはならない。であるから、空文それのみをただただ振り回すという人間のことを観念論者と呼ぶのは、罰当たりもいいところであり、精確に言えば大きく間違いなのである。

さて余談が過ぎたが、Oくんにあっては、今回の課題を正面に据えて取り組み、正しい姿勢と考え方で進め、論理に振り回されないような認識を創りあげてもらいたいと願ってやまない。

繰り返すが、あなたには論理がないのではない、論理的たろうとしてアタマの中にある論理なるものに振り回されているだけなのである。課題を極端に難しいものとして、姿勢をガチガチに構えすぎているのである。

であるから、だからこそそれが、正しい論理として把握され、さらに技として身についたときには、その論理を何よりも大事にしようとする姿勢とそれによる実力が、他に並ぶもののない大きな力として、生涯にわたって研究・生活のあらゆる面において自らのもっとも頼りとなるものとなることを、ここに保証するものである。

まずは難しいことを考えずに、肩の力を抜いて素直に、課題と向き合うことが大事である。
このバランスがうまくとれるまで付き合うつもりでいるので、諦めず取り組んでほしい。

2013/05/18

「人を動かす」一般論はどう引き出すか


少し前の評論記事で、


D.カーネギー『人を動かす』を扱いました。

問題を解いている当人が手こずっているようなので、ヒントを出しがてら、読者のみなさんにも考えてもらえるようにアドバイスのメール内容に加筆・修正を加えて転載しておきます。

そもそもこの本をなぜ選んだかといえば、「人の内面の動きをよく知り、よく見抜けるようになる」ため、つまり分野で言えば認識論をより高めてもらうための、ごくごく基礎的な入門書として、です。

ところが入門書といっても、これ一冊で認識論に入門できるというわけではなく、これはアメリカにおける人間関係の様々な失敗・成功という経験談を、項目別に整理したもの、です。
そこでは各個別の経験談が、それなりの整理の仕方で提示されてはいますが、このことは、学問で言う<体系化>とは、質的にまったく違うものです。

経験談をなぜに体系化する必要があるのか?そのまま使えば良いではないか…、と思われる方は、「では実際に使ってみてください。そうすれば体系化の必要性がわかりますから」と言うことになります。

というのも、個別の経験というものは、「そのままのかたちでは、」他の個別の経験に適用することはできない、からです。

もしできる場合があるすれば、それは、個別の経験とほとんど同じ場合に限られる、のです。

たとえば、こんな例で考えてみてください。

学校を卒業後、セールスマンとして出発するあなたを見送るとき、母親が、「お客様に失礼のないようにね。女性にとっては結婚記念日というのも大事なものですから、もし聞いたときにはしっかりと覚えておくように。それが人と関わるときには大事なことです」と言ってくれたとしましょう。

あなたがなるほどと思ったはいいものの、もし、この個別の経験談というものを「個別のかたちのまま」適用しようとしたときには、当然にあなたは行く先々で結婚記念日を聞きまわることになってしまいます。

しかし中には、それをそれほど重視しておらず覚えてすらいないような方もいるかもしれませんし、そもそも未婚の場合には、人と関わるための手がかりすら見つけられない、ということにもなりかねません。

ですから、ここでもっとも大事であったはずのことは、顧客の結婚記念日を忘れないという個別のハウトゥではなくて、それを他の個別の経験も含めて総合し一般化したところの、「相手の大事なものは自分も大事にしておかねば、人間関係など保てるものではない」という、人間関係における一般論、なのです。

その土台の上に、各組織のあり方や、商習慣、プライバシーの問題などという特殊性がうまく加味された時に初めて、あなたは一定の仕事ができるものと見なされるわけです。

それだけに、そうした一般化は本書でもある程度なされようとしているのですが、これでも、まだまだ十分ではありません。

◆◆◆

ですから、これをあくまでもたたき台として、その内容を自らの力で体系化してみる、という練習問題として取り組んでゆかねば、まともに本を読んだことには決してならず、実践的にも力がつかない、ということです。

学問的な観点から言っても、このような簡単な書物から一般論を引き出すということを繰り返し繰り返しやることで、<一般化>を自らの技として創りあげているのでなければ、最終的に乗り越えてゆかねばならない歴史上の偉人たちの残した理論書などは到底読めるはずもないことだとわからねばなりません。

一般化というものを、「全体を大雑把に掴んだもの」というイメージでヤブニラミして、「そんな簡単なことなら誰にでもできる」だとか、「そんなあやふやなものが一体何の役に立つのだ」という意見を述べる方がおられます。

しかし実のところ、一般化というものをしっかりとやってゆくためには、たとえば書かれた書籍の論理が一段の実力ならば、その読み手は、少なくとも三段か四段の論理的な実力を持っているのでなければならないのです。

これは、知識的に整理するのみならず、論理的な構造をいかに鮮やかに把握しさらに一語で表現しうるか、という、論理の問題ですから、あまり軽く見られぬことです。

5月の下旬には答えを出しますので、しっかりと力をつけたい方は、それまでに独力で答えを出してみてほしいと思います。

このあと、同じ著者の『道は開ける』についても一般性を出してもらおうと思っていますので、今回は練習してみたい、という場合には、「こんなことだと思うのですが合っていますか」と質問してもらってもかまいません。

別に試験でもクイズでもありませんので、答えがあっているかどうかよりも、どういう過程でそれにたどり着いたのか、ということのほうがより大事です。

古代ギリシャの哲学者たちがどのように認識力を質的に高めたかを追ってゆけば、問答の持つ力というものも、もっと重視されてしかるべきです。

どちらにせよ学問の本質は、知識ではなく認識における技、のほうに力点がかかっていると思ってもらって結構です。
ですから、同じものを見ていても、そのレベルが高ければ見えるし、そうでないのなら見えぬ、という結果になります。

さて、以下はメール文面ですので、常体で書かれています。
よろしくお付き合いください。

◆◆◆

薄井坦子『科学的看護論 第3版』が科学たるゆえんは、その体系性にあり、それは看護一般論として提出されている次の文面にも表れている。

著者にとっての看護一般論とは、
「生命力の消耗を最小にするよう
生活過程をととのえる」
こと、である。

これを参考にしながら、今回お題にしているD.カーネギー『人を動かす』の一般論を引き出すとするならどのようになるのか?というのが今回の問題であった。

その価値もわからないまま今すぐ科学的看護論まで買い求めよというのは少々酷であるから、問題を解けるだけのことを簡単に述べておくと、以上の文面のうち、看護が扱う対象となるのは、「生命力の消耗を」および「生活過程を」であり、看護の目的となるのは「消耗を最小にするよう」であり、そのためにどのような指針を持って臨むのかということが「生活過程をととのえる」という一文として表現されているわけである。

これらが書籍中ではそれぞれの理論として整えられており、それぞれ「対象論」「目的論」「方法論」として成立しているものである。
(わかりやすくは人を動かすーD・カーネギー 1-1の図を参照)

『科学的看護論』ではこのように看護学が体系化されているのだが、翻って『人を動かす』を読めば、体系性などは影も形もないということに気付かされる。

みなさんがアメリカの実用書および研究書を読んだときにはよく感じられることだと思うが、それは一言で言って、「内容についてはこのとおりなのだろうがそれにしても、もっと整理できるのでは…?」ということであろう。

たとえば、文章を端から読みながら、ノートに要点をまとめて行った時に、同じ内容について、あっちではAと名付けているのにこっちではBと呼んでいるのに困惑しつつ、さらにそれでも頑張って自分なりに整理しながら最後まで読み進めると、思いもかけず筆者による要約がついている。

それを読んでみると、どういうわけか自分の整理したものとは随分違っている。そうすると、もう一度それにしたがって読み返さなければなるまい。ところが問題なのは、この二者がずいぶんと食い違っているのである。しかし偉い先生の言うことだから、きっと自分の理解が至らぬせいであろう…と努力してようやく慣れてきたと思い次の書籍を手に取ると、今度はAをCと言っている、これらをいかに統一すべきか!?

しかしそもそも、学問の段階で物事を論じるということは、必ずそこには明確な概念と、その明確な規定がなければならないのであるから、筆者はそれこそに努力を注ぐべきなのであるが、それがないまま論じまくるので、結局筆者にしかわからない記述のありかたになってしまっているのである。

そういうわけなので、ここであなたが「もっと整理できるはず」と感じたことを整理して言えば、もっと<体系化>できるはず、ということなのであるが、それは、残念ながらこういった著作とその筆者には、<体系>という概念がないか、あってもせいぜい、「項目別に整理する」くらいのものとしてしか認識されていないという事実によるのである。

ことはこのようであるから、体系化は、『人を動かす』の全体像を掴んだ上で、そこからおぼろげながら浮かび上がってくる一般論を、さらに対象論・目的論・方法論として明確に位置づけるというかたちで、あくまでも読者の努力によって成されねばならない。

たたき台としての全体像を掴むためには、マインドマップを作ってみてもよい。
ほんとうに力を付けたければ、この製作も自分の独力で行い、「全体の構成を掴みながら」各章を読み進め、要点を書き込んでゆくこと。

慣れないうちは、この、「全体の構成を念頭に置きながら各章を読む」という、全体と個別の行き来というものが、とても疲れるために、読み進めていくうちにいつしか、全体像との照らし合わせを忘れ各章だけを端から読んでしまいかねないので、その点を努力しながら、注意力とその持続力もしっかりと養ってもらいたい。

Mac用アプリケーション「MindNode Pro」を使用。

このことをふまえて『人を動かす』を読んでゆくことにして、たとえば2章を見ることにする。
すると、その節立ては、「誠実な関心を寄せる」、「笑顔を忘れない」、「名前を覚える」、「聞き手にまわる」、「関心のありかを見抜く」、「心からほめる」とある。

ここで読者のすべきことは、これらのキーワードは、「人を動かす」一般論のうち、どの分野として扱われるべきものであるか?と問いかけてみることである。

これらは「人を動かす」ための対象なのか?目的なのか?方法なのか?

このように問いかける中で、はじめに立てたおぼろげな一般論と、個別論としての対象論・目的論・方法論が、相互の関係性において把握された時に、それがゆるやかに重なって最終的にピタリと一致し、全体として明確な一般論として提示されてくるところにまで進めてゆけばよい。

当然、ここで出されるはずの一般論を土台として、この本のどの章のどの部分もが、その土台の上の個別として位置づけられていることになるはずである。

◆◆◆

学問の出立時、論理学(=弁証法)がいちおうのかたちで把握されたあとには、このような簡単な書物を、自らの力で何度も何度も体系化して、一般論を引き出すことを熱心にやっておく、つまり<一般化>を技として創出しておかなければ、複雑な学問やそれが扱う対象たる森羅万象の構造などはどうあがいても引き出しようもないわけであるから、文化人たり得たいと願う人間はぜひとも取り組んでいただきたい。

5月の最終日に答えを出すので、力を付けたい人はそれまでに独力で答えを用意して答え合わせをするとよいと思う。
もちろん、質問しながら問答のなかで答えを探してゆくということでも力をつけてゆけるので、質問は随時。

また『人を動かす』のあと、『道は開ける』についても一般論を出してもらうつもりであるので、ハードカバー版を単体で買うよりも3冊組のハンディ版を買い求めると扱いが楽である。

2013/05/16

文学考察: メールストロムの旋渦ーエドガー・アラン・ポー

(※2013/05/18 20:00 冒頭の字句を訂正)

うーん、


これはなかなか。

弁証法を学んではいるけれども、自分自身の技としてどの程度身についているのかわからない、どう使ってゆけばいいのかわからない、という人は、以下の評論を読んでみてほしいと思います。

この評論中には弁証法の三法則なるものは、表向きとしては、つまりその法則名そのままのかたちとしてはまったく出てきません。
しかしいったんその根底にある構造に目を向けようとすれば、そこに把握されまた表現の中に貫かれている構造が弁証法的なものになっていることがわかるはずです。
(初心のみなさんにもわかりやすくするため、字句を訂正しました。)


◆文学作品

エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe 佐々木直次郎訳 メールストロムの旋渦 A DESCENT INTO THE MAELSTROM

◆◆◆

この物語は、「私」が、もと旅の案内者である「老人」の話を聞くところから始まります。

その男というのは、見たところ年老いた老人にしか見えないのですが、実のところ実際の年齢は相当に若いところであるものの、漁師であった頃に出遭った、ある6時間の出来事からくる死ぬほどの恐怖によって、そのような風貌となったというのです。
それが、「メールストロムの大渦巻」というものなのでした。

「私」は、大波が「岩石暗礁にせきとめられて瀑布のごとく急下す」ところに渦巻を生じる、という理屈はいちおう理解しているつもりだったけれども、そびえ立つ岩の頂上から実際にそれを見たとき、「この深淵の雷のような轟のなかにあっては、それはまったく不可解なばかげたものとさえ」思えてきた、と率直に語っています。

兄と弟ともども漁師であった「老人」は、この渦巻に取り込まれたとき、たったひとりで生還したという人物であるというのですが、一体彼は、どのようにしてそこから九死に一生を得たというのでしょうか?
その謎解きが、この物語の大部分を占めています。論者の説明を聞いてみましょう。


◆ノブくんの評論

文学考察: メールストロムの旋渦ーエドガー・アラン・ポー
 ノルウェー北部に発生するメールストロムという大渦を越えて魚を捕っていた漁師、「私」とその2人の兄弟はある台風の時、「私」のちょっとした不注意でそれに呑まれてしまいました。やがてその3人のうち、弟は自分を縛っていた船の帆ごと強風によって飛ばれてしまいます。そして残った兄と「私」は、この大自然の大いなる潮流を目の当たりにして、絶望を感じていくのでした。
 ところが「私」は大渦に近づくにつれて死を覚悟してゆく中で、なんとある時点からそれが「かえって」自身に落ち着きを取り戻させてくれたというではありませんか。更に驚くべきことに、冷静さを取り戻していった彼は自分を死の淵に追いやっている渦そのものに対して興味を抱きはじめていったのです。そうして渦を観察していく中で、彼は渦に砕かれている物体と全くいたんでいない物体がある事を発見し、そうした法則性を利用する事で脱出に成功したのでした。
 ですが彼は何故、自分が窮地に追いやられていったにも拘わらず、落ち着きを取り戻し脱出することが出来たのでしょうか。
 
 この作品では〈渦に呑まれて絶望するあまり、かえって客観的に物事を見なければならなかった、ある漁師〉が描かれています。 
 「私」が主観を失う直前(※1)、彼はこれまでに見たことのないような自然の脅威と偉大さを目の当たりにします。その光景は、彼にはとても現実のものとは思えず、あたかも神話の世界にでも迷い込んだような印象を持たせたのでしょう。そしてこうした事実が現実に起こっているにも拘わらず、それが日常の風景とは大きく異なった場面であった為に、彼は客観性を持つことに成功したのです。
 それは、私達が親しい人々の死に直面した時の心情と少し似通ったところがあるのではないでしょうか。というのも読者の方の中には、友人や家族の死が衝撃として強すぎる為に実感としては受け止められず、何か面白い冗談を聞いたようについ笑ってしまった事はないでしょうか。どうやら私達の心には、主観としては受け止められずとも、客観的に全体を見渡す事で事実を受け入れようという働きが存在しているようです。
 そしてこの作品に登場する「私」も目の前で起こっているありのままの光景、そこにいる自分というものを受け止められないために「どうやら自分はここで死ぬのだろう」と、あたかも他人ごとのように考えるほかなかったのでしょう。そして一度冷静になった彼は、次に自分の置かれている立場を理解する為、あたりを観察しようとします。
 ここで重要なのは、彼が必ずしも主観を捨て客観性を持ち得たのではなく、主観的に死を承知しすぎているからこそ、客観性を持たなければならなかったということです。ですから主観は消滅したのではく、この後も主観的に恐れたかと思えば冷静さを取り戻し、そうかと思えば再び畏怖しはじめるといった複雑な心理状態に陥っていきます。やがてそうして機微に心を変化させていき観察していく中で、彼は自分の置かれている状況を整理していき、渦から脱出することが出来たのでした。自分の置かれている状況の恐ろしさを実感すればする程、より冷静にならなければならなかったのです。
 
 注釈
1・船は左舷へぐいとなかばまわり、それからその新たな方向へ電のようにつき進みました。(中略)その右舷は渦巻に近く、左舷にはいま通ってきた大海原がもり上がっていました。それは私たちと水平線とのあいだに、巨大な、のたうちまわる壁のようにそびえ立っているのです。
 奇妙なように思われるでしょうが、こうしていよいよ渦巻の顎に呑まれかかりますと、渦巻にただ近づいているときよりもかえって気が落ちつくのを感じました。
2・胸が悪くなるようにすうっと下へ落ちてゆくのを感じたとき、私は本能的に樽につかまっている手を固くし、眼を閉じました。何秒かというものは思いきって眼 をあけることができなくて――いま死ぬかいま死ぬかと待ちかまえながら、まだ水のなかで断末魔のもがきをやらないのを不審に思っていました。しかし時は 刻々とたってゆきます。私はやはり生きているのです。落ちてゆく感じがやみました。
初めはあまり心が乱れていたので、なにも正確に眼にとめることはできませんでした。とつぜん眼の前にあらわれた恐るべき荘厳が私の見たすべてでした。しかし、いくらか心が落ちついたとき、私の視線は本能的に下の方へ向きました。
◆◆

論者の言うことを結論だけ聞くと、「老人」(評論中では「私」)がたった一人助かった理由は、渦に呑まれたという絶望によってである、となっています。

もしここを、ものごとには「あれ」か「これ」かの両極があり、それは絶対的に隔絶されているのだと見る形而上学者が読めば、「絶望によって救われたとは笑止!」となって、絶望によって人が救われるわけはないからどこかに希望があったはずだとばかりに文中を探しまわり、いったんそれを見つけたときには「ほれ見たことか」と、絶望派に対して批判の矛先を向けることになるのですが、残念ながら、笑止であるのはそちらの方です。

机の上の書物に向き合って、過去の偉人がすでに概念化・法則化してしまった人間心理、ひろくは人間の認識のあり方をあれこれ接木してオリジナルの学説とやらを作っているばかりの形而上学者にとっては、こういった、絶望転じて希望となる、という転化が実際のこの世界で事実起きているということは、いわば理論の埒外であり、絶対に起こるはずのないことなのです。

形而上学者の人間心理理解にとっては重大な命題、「人間は好きなことを好きだからやるのであり、嫌いだからやるのでは決してない」ということは、一面では真理であると言えますが、現実の人間心理のありかたに即せば、それよりもふまえておかねばならないのは、「人間は好きなことを嫌いになったり、嫌いなことを好きになることがある」という心理上の転化です。

こういった現実のあり方を理屈に合わないとか異常だとか例外だとかいって無視したり、簡単に脇に片付けてしまうから、論理が正しく延びてゆかないというとんでもなく悪いサイクルに落ち込んでいってしまうのです。

自らの論理を高めようと思ったら、その論理で持って現実を見、そして試す、という姿勢がまずは絶対に必要であり、それ以外にありません。
いくら現実をありのままに見るといっても論理がなければダメ!なのであり、いくら論理を大事にしているからといってそこから一歩も動かず現実の問題をあれこれ解釈したり斬ったつもりになっているのもまたダメ!、ということです。

現実を見れば、食わず嫌いしていたピーマンを好きな人が料理した途端食べられるようになったり、沈んだ気持ちを押して無理にでも笑顔を作ろうとしたところ気持ちも整ったりという変化は、人間心理にとってごく自然なものとして起こってくるものであって、これを正面に据えて理解するためには、やはり弁証法が必要です。

◆◆◆

その観点から言って、論者の、この作品の理解は、なかなかに弁証法的な段階に達していると言ってよいでしょう。

自然の圧倒的な脅威を前にした人間が、目の前の出来事を感情的に受け止めることができず、我を忘れて腑抜けたように逃げることも忘れてただ見る、その姿勢が、<かえって>当人を冷静たらしめ生存の道を拓いてゆくことになったという<否定の否定>のあり方を、その過程における<量質転化>および<質量転化>に目を向けながら書き出したということは、この作品を現象面からでなく構造面で理解しようとしたところから成し得たものでした。

また加えて言えば、作品の筆者にあってはこれらのことをより強調したいがために、ものごとの受け止め方の違う三兄弟を登場させて、さらに一人だけを生き残らせたことによって、彼が九死に一生を得た理由を読者に考えさせるという構成をとっているのですから、これを<相互浸透>であると言ってよいことになります。

さて評論に話を戻すと、文中の最後の段落、
ここで重要なのは、彼が必ずしも主観を捨て客観性を持ち得たのではなく、主観的に死を承知しすぎているからこそ、客観性を持たなければならなかったということです。
という箇所には、自分の物事の見方は形而上学では決してなく、あくまでも弁証法的たろうとしているのだ、という姿勢と、読者にその法則性をこそぜひとも注目してもらいたいという感情が込められており、ここまで読めているのなら作品の著者も喜んでくれたのでは、とわたしも考えているところです。

◆◆◆

惜しむらくは、続く一文
ですから主観は消滅したのでは(な)く、この後も主観的に恐れたかと思えば冷静さを取り戻し、そうかと思えば再び畏怖しはじめるといった複雑な心理状態に陥っていきます。
において、「複雑な心理」ということばで済ませてしまい、それ以上の心理状態を深く探求しようとしなかったことです。


また、本文の文頭に
 自然における神の道は、摂理におけると同様に、われら人間の道と異なっている。また、われらの造る模型は、広大深玄であって測り知れない神の業(わざ)にはとうていかなわない。まったく神の業はデモクリタスの井戸よりも深い。
とのジョオゼフ・グランヴィルの引用があり、さらに文中には
理論上ではどんなに決定的なものであっても、この深淵の雷のような轟のなかにあっては、それはまったく不可解なばかげたものとさえなってしまうからである。
とあるにもかかわらず、物語の一般性を「老人」の主体の問題としてまとめているところには、議論の余地が残されていると言えるでしょう。

この物語は自然の法則性というものは人の手に余るところにあるということを言っているのだ、という見方がこれらの引用を引いてきたときに、論者はどう反駁するのでしょうか。

◆◆◆

とはいえ、本質的に新しい創作活動をするということは、過去の作品の扱っているテーマや素材をそのままに自分の作品として横滑りさせることでは絶対になく、それらの「論理構造」をこそ学んでゆかねばならないという観点からすれば、十分な成果が得られつつあるものとしてよいと思います。

そろそろ、おそらく世では鬼門として扱われているであろうエドワード・ゴーリー『不幸な子供』といった著作についても、その論理構造を引き出しうる時期に来ているのでは、と期待しているところです。


※誤字
・ですから主観は消滅したのではく
・やがてそうして機微に心を変化させていき…「機微」の意味を誤っています。文脈からすれば、「微妙に」とでもいうべきところであり、もっと言えば一文の書き始めは「微妙な心理状態の押し戻しを繰り返す中で」などとするのが適切でしょう。

2013/05/14

本日の革細工:自転車リアバッグG1R (2)


(1のつづき)


前回までで、芸術の創作における過程的構造をおさらいしました。

さて、上で述べたような論理が正しく抽出された際には、それをどう使って、正しい創作活動をしてゆく手がかりとすればよいのか?という局面が待っています。

論理や理論は、実践において抽出され、かつ実践において試されることでさらに磨かれてゆくものですから、形而上学者が論じたり頭の硬い実践家が主張するような、絶対的に独立した位置づけのものでは決してない、のですから。どちらが欠けても共倒れになるのみ、です。

◆◆◆

ここは、芸術の本質についての論理がある場合にはどのような創作活動となるのか、という説明よりも、それが「ない」場合にはどのようなことになるのか、という論じ方のほうがわかりやすいと思います。

たとえば、読者のみなさんがウェブサイトのデザイナーになりたいと思いたち、その道のプロがどういうことをしているのか勉強しようとしたときのことを考えてみましょう。

ウェブデザイナーなんかなりたいとはちっとも思わない?それでもかまいません。
そういう人のほうが、むしろ自分のことのように考えやすいと思いますよ。

さてこの場合、Webデザイナーになりたい、などといったタイトルの本がたくさん出版されていますから、どんな本屋に行っても数冊は見つけることができるでしょう。

ただ、そのうちのいくつかを手にとって見てもらえればわかるとおり、Webデザインとはどういうものか、や、芸術の中での位置づけ、それが誰にどう訴えかけるものなのかといった本質的な論理は素通りされ、目につくのは、「コンピュータはMacが望ましくこれこれのアプリケーションを用意すべし」だの、「トーンカーブはこう使え」だの、「HTMLの記述をどう揃えておけばブラウザ間の互換性がとれるか」といった、コンピュータに馴染みのない人なら、帰るまでの電車の中ですら強烈な眠気を誘うような文句ばかり、ではないでしょうか。

なぜこんなことになるのかといえば、ここでもやはり、表現というものの本質が、その技巧や技術のところにある、という前提にあるのです。

前提そのものが間違ったまま、単にPhotoshopやIllustratorといったアプリケーションのガイドブックばかりを買い込んで習得することになると、個別の技術は望みどおり、その努力にしたがって磨かれてゆくのですが、数年仕事をしてゆく段になると、デザインのアイデアそのものが枯渇し、いわばネタ切れ、の状態となってゆくのです。

技術そのもののなかには、芸術における創造性を担保するものがまったく含まれていないことから、これは論理的に言えば当然、といえるのですが、当人においては、「芸術=技術」、特殊的には「ウェブデザイン=アプリケーションの使い方」という誤った前提が反省されることがないために、自分がどうしてジリ貧の状態に陥ってしまっているのかが解けず、結局、アイデアのある人間のもとで働き蟻よろしく働くことになるか、まだ仕事ざかりという年齢のうちに、「この仕事とは合わなかった」と引退せざるをなってゆくのです。

◆◆◆

ここで気づかねばならないのは、たとえば、同じ「写真を加工する」という操作をする場合にも、現実に手にとった現像した写真の角をカッターで丸めるのと、画面の中のアプリケーションでアルファチャンネルとマスクを使いこなして角を丸めるのとでは、「いったい何が違うのか?」と考えること、なのです。

前者は誰にでもできますが、後者についてはそれなりにアプリケーションの操作に習熟した人間しか行うことができないという事実をそのまま見て取って、「後者が芸術的に優れた人間なのだ」という思いあがりが、芸術の本質にたいする見る目をまったく曇らせ、芸術=技術という考え方に固執させてしまっているわけです。

実のところここで本質的なのは、写真を丸めるための手段にあるのではなくて、「それを丸めるとその写真の価値はどう高まるのか?」、「全体としてウェブサイトの価値はどう高まるのか?」ということ、なのです。

これを決めるのは、当然に、作り手がどういうものを認識し、それを創りたいとしているかにかかっているのですから、ウェブサイトを作るにあたっても、それを「どう作るのか」ということよりも、「なぜ作るのか」、「何のために作るのか」、「何を作るのか」ということのほうが、はるかに力点をおかれるべきなのであって、そこを意識できるのであるならば、アプリケーションのガイドブックばかりに投資するのではなく、より歴史のある絵画や彫刻を美術館で見たり、海外旅行に行って創作の素材となる対象により多く触れる、というところをより多く重視するべき、という答えが出るはずなのです。

◆◆◆

個人的なことがらで恐縮ですが、自宅を開放して学生さんと議論したあと、食材を買い出しに行って、わたしのいつも食べているような料理をふるまうことがあります。

このとき、学生さんはみな口を揃えて美味い、この値段でこれだけのものが、と言ってくれるのですが、わたしにとっては「まずい」料理、です。

というのも、自分の料理技術というものが、自分自身の「こういうものが作りたいな」という認識に追いついておらず、思った通りの味や香り、彩りといったものになっていないので、褒められるところはないな、と思うからです。

同じように、あるだけの音感に照らして自分で満足の行く音が出せない場合や、描きたいものははっきりしているのに筆の運びがついてこない場合にも、人からどう評価されようとも同じことを思います。

もっとも、もしひとつの表現ができたあと自分の満足にできたと思った場合にも、自分の見えていないところがどこかにあるはずだ、わかっていないことすらわかることができていないところがあるはずだと考えますので、結局のところやはり、芸術に終わりはない、という命題にたどり着きますね。

さてここからわかることを学問的に整理してしまえば、「認識と表現は相対的に独立している」となりますが、ひとつの表現がまずいという場合に、認識能力がまずいのか、それを表現へ移し替える技術力がまずいのかということは、どうしても、区別と連関の関係において捉えておきたいところです。

以上、芸術における創作活動の過程的構造と、それをふまえておかねばどうなるか、という実践の問題に少しばかり触れてきました。

これらのことは、ひろく表現にたずさわる人たちは直接的に、実践を理論的に進めたい人たちはとくに認識と表現の区別と連関について、自身の専門分野に照らして考えていってもらいたいと思います。

認識と表現の区別がまともにつくだけでも、どんな仕事でも実務・指導のレベルは当初より飛躍的に高まると思うのですが…。実務界の無理論は見るも無残、心底悲しく思うところです。

ともあれ文字ばかりの記事でもがんばって読了してもらわなければ、当Blogの内容を本当に役に立ててもらうことはできないので、まえがきとして書いてきたものです。

次回ではようやく、写真を多めに、革細工を見てゆくことになります。


(3につづく)

文学考察: 人を動かすーD・カーネギー 1-1


ずいぶんとひさしぶりの、


文学評論へのコメント記事です。

ただ今回扱ってもらったのは、文学作品ではなく認識論的なお話で、読書好きな方ならまず知っているはずの書籍です。


◆ノブくんの評論

文学考察: 人を動かすーD・カーネギー 1・人を動かす三原則ー1盗人にも五分の理を認める
人を動かすーD・カーネギー 1・人を動かす三原則ー1盗人にも五分の理を認める
 本章では、〈他人を指導したり議論する時、その人の気持ちを受け入れる事がいかに重要であるか〉が論じられています。
 というのも、私達がものごとに対して問題を発見した場合、他人のせいにしてしまいがちな傾向があるならにほかなりません。それはどうやら自分に原因がある場合でも、また他人に原因がある場合でも関係ないようです。そしてそうした性質は問題の解決に向かうどころか、かえってお互いを避難し合い、本質的な問題とは別のところで新たな問題を生み出してしまう可能性があります。
 例えばあなたはこれまで仲良くしていた部活の友達、会社の同僚と部のあり方や仕事に関して議論していたにも拘わらず、いつの間にか激しい口論になってしまっていたという経験はないでしょうか。そしてそうなってしまえば、次回その人と何か重要な事を話さなければならなくなった時、あなたはその問題よりも前に相手との関係を気にする事でしょう。
 ですから私達が問題とぶつかり他人を指導したり意見を交わさなければならなくなった場面では、まず自分の側から相手を受け入れる態勢をつくっておくことが重要なのです。こうしておけば例え相手の自分を受け入れる態勢が整っていなくても、平行線になることはないでしょう。相手が自分の意見をなかなか受け入れてくれない場合、自分にもそうさせている要素があることを肝に銘じておかなかればならないのです。

◆わたしのコメント

結論から言って、これではダメです。

なぜならこの、端からつぶさに読むだけという読み方では、全部を読み通してもただ読んだだけ、になってしまうのであり、人の動かし方を体系化したものとして頭脳に持つことはかなわず、当然に実践の中でまともに使うことも叶わなくなってしまうからです。
(ついでに、誤字も数箇所あります)

わたしはこの本を参考書に指定したとき、あなたが人の気持ちをもっとよくわかるようになるために読んでほしい、とだけ伝えて、レポートとしてまとめてきてもらうことにしたのでした。

ということは、レポートのまとめ方、のようなことは一切伝えなかったわけですが、だいたいにおいてどんな世界のどんなジャンルのことでも、初めの一歩を踏み出すときには、その探求の仕方そのものが皆目見当もつかないのですから、それこそ、その方法論こそを必死になって探求しておくべきなのです。

常々述べているように、やり方がまずければどんなに努力を重ねようとも大した結果にならないどころか、むしろやればやるほど下手になる、といったことすら起こるのですから、もし向こうに見える島まで本心から泳ぎ着きたいと思うのなら、自分の今できる犬かきでは無理だろうと客観的に(否定の否定で)見つめるところからはじめなければなりません。

さて今回扱ったD.カーネギー『人を動かす』は、人との不和を起こさずに自分の思うとおりに動いてもらうためにはこうすればよい、ということを、多くはアメリカにおける実例から経験的に引き出し、まとめたものです。
(ハードカバー版よりも、ハンディーカーネギーベスト版(3冊組)のほうが扱いやすいと思います。)

ただこれは理論書ではないことと、アメリカの書物、とくにビジネス書によく見られるように、個別の実例はいちおう項目別に分かれているものの、まったく体系的に整理されないままに並列して記されているのみという構成を持っているので、この本を読む時に大事なことは、全体をざっと通し読みして、全体の絵地図、つまり「人を動かす」ための一般論をまずは持っておく、ということです。

いきなり個別の実例に細かく集中するような読み方では、いつまで経っても体系化などということは夢のまた夢、ということになりかねません。

読む価値のある本を選ぶことはたしかに大事ですが、それ以上に、書物との向き合い方は、より重要視されるべきなのであって、たとえ内容や構成がまずい本であっても、読み手の姿勢と能力如何によっては、反面教師として学んだり、体系化しながら読み進めたりといったことが十分にできうるのです。

わたしと学生のみなさんが同じ本を読んでいるのに、読めている深さが違うという場合には、こここそが違う、のです。

◆◆◆

では、どのように読み進めてゆけばよいのか?
と、「訊ねたい」方もおられるかもしれません。

しかしこれを全部言ってしまったのでは、もっとも大事な方法論というものを一生懸命に構築してゆくという姿勢がやはり身につきません。

この方法論というものが、一朝一夕で身につくとは絶対に思わないでください。

これは例えて言えば、学校からの30分かかる徒歩での帰り道の中で、毎日毎日同じくらいの時間帯に同じ角度から夕焼けを見ながら帰ること3年にしてはじめて、「今日の夕焼けは、明らかにいつもと色味が違うな」と思えるだけの見る目が養われてゆく、ということと同じ構造を持っているものです。

この気付きは、次の日の朝に大きな地震が来たりすることで、ようやく裏付けられるわけですが、ともかくその修練の過程としては、繰り返し、繰り返しの上にさらなる繰り返し(量質転化)が必要なのであって、誰かに答えだけ教えてもらえばどうにかなるというものではありません。

加えてはじめの数年間は、何らの成果も得られぬ寂しさに、「論理的に言えばこれであっているはずだ」との信念ただ一つを頼りに耐えに耐え続けなければならない、という厳しさも自分の身に捉え返してわかっておいてほしいと思います。

もっといえば、ひとつのものごとの見る目が養われたと自覚されるときには、それを自らの論理と志と努力だけで成し遂げたのか、「誰かに同じ通学路を3年間歩けと言われて渋々やったのか」では大きく違うものがあるのだ、ということもふまえておいてもらいたいと思います。

◆◆◆

ともあれ、そういうわけなので勝手に頑張れ、というのではこれまた運任せになってしまいますので、いくつかヒントを出しておくことにしましょう。答えを訊いてしまいたい気持ちをこらえて、じっくり考えてみてください。

ところでこのヒントは、わたしのところで研究している学生のみなさんには、すでに提示されていた!ものです。

論者だけでなく社会科学を専攻するひとたちには、薄井坦子『科学的看護論(第3版)』を薦めてありましたね。

この冒頭に、看護実践の一般論が記されているはずです。
それは、このようなものでした。


看護一般論(薄井坦子『科学的看護論(第3版)』)

本書の構成を見ると、著者はこの一般論を立ててから、それぞれの個別論である対象論、目的論、方法論への言及にすすんでいることがわかります。

もしみなさんが、科学的に体系化されてはいないが個別の事実としてはすくい取るべきものを持っているであろう書物に出合ったときには、こういった、科学的に体系化された書物を参考にさせてもらえばよいのです。

ここに看護の一般論が提示されているのですから、これを「人を動かす」ための一般論に援用できないでしょうか?もしできるとしたら、どういう文面になるでしょうか。

まずは、そこからはじめましょう。

2013/05/13

本日の革細工:自転車リアバッグG1R (1)


やってきました。


…といっても、わたしにとっては毎日取り組む創作活動のひとつでしかないのですが、どうも周囲にウケが良いように思われるのが革細工なので、求めに応じ推参、ということになります。

それでも、楽器の演奏や習字やら料理なんかの表現をここで紹介しても仕方がないような気もしますし、絵入りで説明もしやすくおまけに機能性もはっきりしておりとっつきやすいので、ちょうどよい落とし所なのかもしれません。

さてそうはいっても、ここはただならぬところ、芸術と創作活動の一般論をまずは再度ふまえておきたいと思います。
ガッカリせずに前半2回だけお付き合いいただき、次回以降の記事につなげてゆくことにしましょう。

◆◆◆

芸術というものを広く見渡すと、そのなかには習得に幼少の頃からの厳しい教育が必要なものから、革素材でつくった作品のように、数ヶ月で基本的な勘所は押さえてしまえるようなものまで様々です。

ただ芸術を扱う際に、こういった芸術の習得期間の長短にあまりにも目を奪われすぎて、芸術表現と技術を同一視し混同して論じるような考え方が出てくることがあり、それが芸術を論じる際のはじめの落とし穴になっているようです。

たとえばそれは、手間のかかる工程でつくった料理が上等なのだとか、常にブレのない音色を出せる奏者が一流と呼ぶに相応しいのだとか、絵筆を使った絵画よりもPC用アプリケーションを使って描いた絵のほうが精確で高度なのだとか、ありとあらゆる現れ方をするのですが、この考え方を端的に言えば、芸術というものの価値を、技術や技巧と直結させて論じる、というところに特色があります。

この考え方で言えば、画家ピカソがキュビズムに移行し、顔の正面と側面がくっついたような絵を描くようになったという事実については、むしろ描写の技術としては低下したものとみなすのが自然であるということになります。さらには抽象画が登場するようになると、筆の運びとしては赤ん坊が絵筆で遊んでいたらたまたまできたようなものと大差ないようにも見えますから、ああいったものの芸術的な価値は、相当なレトリックでコジツケなければ説明できません。

またこの考えを推し進めると、究極的には、現実の対象を写真と同じように描写することの技術を競うフォトリアリスティックこそが最高の絵画であるという結論にもなってきます。

◆◆◆

素朴な常識から言えば、本当にそうなのかな、リアルな絵だけしか価値はないのかな。技巧としてはまずくても味のある絵もあるのではないかな、と感じられて当然でしょう。

しかしもし、この素朴な常識にも一定の真理が含まれているのだと言いたいときにはなおのこと、芸術の価値は一体どこにあるのか?という問題を解いておかねばならないことになります。

ここの読者のみなさんはよくご存知のことと思いますが、難しい問題を解くときには、急がば回れで一般論からしっかりと押さえておくことが絶対に必要、なのでしたね。
今回も、芸術というものが人間の手による一つの<表現>である、ということがふまえてさえいれば、表現の過程的構造を手がかりに考えてゆくことができます。

◆◆◆

表現過程は、一般的には、芸術家当人の生活経験を土台とした芸術経験において、素材となる対象と向き合うことからはじまります。
アタマの中にないものは扱いようもありませんから、その原型が残っていようといまいと必ず、彼や彼女は自分の経験から得た対象を直接・間接の手がかりとし、それを素材として、「こんなものを創りたい」と、自らの認識の中に想像をめぐらしてゆくわけです。
さてこの想像はといえば、わたしたちのアタマの中にあるうちには、他の誰にも見えず聞こえず手にとることもできず、このままでは芸術とは呼べません。
ではこれがいつ芸術と呼びうるものになるのかといえば、その認識が作り手の五体をはじめとし、その延長である絵筆やノミや楽器といった道具を使って、実際に客観的な実在として移し替えられた時に、はじめてそう言いうるものになるのです。

この過程を、誤解を恐れずに図式化すれば(=図式そのものを丸暗記してもまったく意味はありません。使えなければ!)、
対象→認識→表現
ということになり、これは芸術のみならず、表現における一般的な構造であると言えるでしょう。

さて、ここで認識から表現へと至る過程に着目すると、たとえば、美しい旋律を思いついても楽譜にする能力がなかったり、また実際に演奏する能力がなかったり、ほかにも複雑怪奇なミステリー小説を書こうにもそれをことばとして固定化する能力がなかったり、といったことが起きてきますね。

これを一言で言えば、「アタマのものを(他の人にも感じられるようなかたちで)外に出せない」というのであり、認識を表現に移し替える力がない、つまり、<技術>がない、と言うのです。

このことを受けて学問では、「技術とは認識の現実的な適用である」と規定するのです。

◆◆◆

ではこの表現過程の構造をふまえて、「芸術の価値はどこにあるのか?」という問題を考えてみることにすると、わたしたちがひとつの芸術を鑑賞するときには、以心伝心というものがあり得ない以上、どうしたってそれが客観的な表現に移し替えられていなければいけませんから、まずはその<表現>と向き合うことになります。

この場合、受け取り手の認識能力、いわゆる審美眼と呼ばれているものやセンス、目的意識といったものが不足している場合には、その良さをまったく理解できなかったり、「なんだか目を引かれるけど理由はうまく説明できない」といった感想をもらすのみ、ということになります。

他に、自ら同様の創作活動に携わったことがある人の場合には、ひとつの表現を見て、「ここは一番難しいところだが、よく処理されているな」とか、「こんな曖昧な心情をよくぞ言葉として描写したものだ」というふうに感心したり、また、一つの絵を通して、作り手が貧困の中で喘ぎながらも人知れず創作活動を続けてきた人格を自らのことのように手繰り寄せ共感し、涙を流すということも起こってくるわけです。

芸術の価値というものは、実はこういった、現実の素朴な鑑賞経験のうちにもそれを解く手がかりがあるのですが、それは、ひとつの表現を受け取り手が目の当たりにした時に、作り手がその認識を自分の技術でもってひとつの表現へと結実したという表現過程を、今度は逆向きに辿り直して、「こういうことを思い、考え、感じていたからこその、この作品なのだ!」とわかる、つまり、そこに客観的な関係が結ばれていることがわかったときにはじめて言い得ることなのです。

ここまでを結論としてまとめておけば、芸術の価値や本質というものは、実のところ作品そのものの中にある、というのがそれなのです。

だからこそ、ひとつの表現を、その創作過程を逆向きに辿り、彼や彼女が認識したものを自らのように捉え返したときには、正しく鑑賞したということになるわけです。

であれば、誤読や曲解といったものについても、どこをわかり損なっているのかがわかってきますね。

◆◆◆

ここで、「芸術を鑑賞するのにそんな大それた理屈がなぜ必要なのか?私は見たいままに見、創りたいままに創るのだ!」という人もおられるでしょう。

しかし、これだけははっきりと述べておきます。

自らの専攻する分野を<目的的に>実践する、ということが、やりたくてやり方がわからない場合はともかく、その必要性をまったく認識していない(=自分のわからなさがわかっていない)場合には、恐るべき結末が待っているということを。

それはそう遠くない未来に、ほかでもない自らを「本質的な創作過程において」苦しめることになったときに、否応なしに自覚されることですから、これ以上説明する必要はないはずです。

申し添えておくと、ここで本質的に、と述べたのは、大した創作過程ができずとも、奇をてらった手法で衆目を引ければよい、政治的にうまく立ちまわったり売り込むのがうまければよい、などというのであれば、これ以上の問答は無用、ということです。

もちろんこの場合、自らの足で人類の文化を歩み自らの手で新しく文化を創ってゆくということは絶対的に不可能!になりますが、まあそういうことに興味のない芸術家(?)や実践家(?)も居るには居るかもしれませんので。


(2につづく)

2013/05/10

「本日の革細工:キャンバスバッグ」についてのお便りをいただきました

鋭い考察ですので、


いま書いている革細工の記事から先取りするかたちになりますが、読者のみなさんと足並みを揃えて考えてみたいと思います。

前回、わずか2,3枚の写真でざっと流した(しかも余談ばっかり)にもかかわらず、以下これだけの考察をされているというのは、まさに作り手がひとつの認識から表現へと至る創作の過程を、自らのことのようにその認識の中に繰り返そうとし、また事実観念的に繰り返せているからに他ならず、「ものを見る」とは好きや嫌いやといった感性を振り回すことでは決してなく、実にこういうことを言うのだ、と、良い実例を示してくださいました。お礼を申し上げます。

とくにこの方の着眼点は、バッグのかたちになったひとつの表現が、単に見栄えがどうであるかという問題以上に、「ものを入れて運ぶ」という機能を、わたしたちの生まれ持った身体のよりよい延長をなさしめるもの、つまり正しい意味での「道具」として果たさねばならぬ、という問題意識に貫かれていることをふまえておきたいものです。

この価値観をより単純に言えば、「ちょっと使いにくいけど格好いいからこれでいいでしょ?」というものづくりはダメ!、ということです。

◆◆◆

翻って世の中を見ると、そういう、デザインに凝りすぎてかえって本来の機能性が削がれているという道具をよく見かけますね。

着るのに30分はかかるけど我慢してね、細く見えるから…とか、
たまにペンが落ちるけど我慢してね、網目がポイントのバッグだから…とか、
発熱するけど我慢してね、クアッドコアでパワフルなスマホだから…などなどです。

こういった道具が生まれてしまう理由はともかく、それが世にあって淘汰されない原因を簡単にいえば、現代という世の中では命を脅かされるようなことがなく、また効率性を極度に追求する必要もないから、と言うことができます。

わたしたちの身の回りにはありとあらゆる道具がありますが、その生成を辿ってみれば、これはある目的を果たすための機能が、もっとも良く発揮される形態が考えられてきたことがわかります。

たとえば10km離れた自宅まで水を運ぶにはどんな道具がよいのか?という目的意識があるのならば、身の回りの環境を見渡して、動物の胃袋や、木の幹をくりぬいたものなどの中から、最も効率のよいものを選ぶことになるでしょう。

この段階の社会では、装飾が入っていて綺麗だとか、カラフルでやる気になる、などといったことも、「水を運ぶ」という機能性がまずもって十全に満たされた上ではじめてようやく検討にのぼるといったようなことでしかありません。(そもそも、道具によって人間の認識が磨かれてきた浸透の過程を考えれば、原始社会を生きた人類は、実は「装飾」「カラフル」という概念すら持つことができていなかった、と言わねばなりませんが)

そういうわけで、現代でも極限の状況下、厳しい自然で生き抜くための道具、戦争のなかで使われる道具などのうちには、そういった、機能性のみを突き詰めてゆくことになるわけです。カモフラージュパターンを見れば、色や模様でさえも、ある目的を果たすために創られ、選ばれていることがわかりますね。

◆◆◆

もっとも町中で生活する人間にとっては、持ち運ぶものを完全に防水したり耐衝撃仕様にしたりして、重くてかさばるものを使っては、かえって「ものを入れて運ぶ」という当初の目的から離れてしまいますから、別に、機能一辺倒のものが良い道具なのだと言っているわけではありません。

ここで言いたいのは、こういうことを考えるときにもやはり弁証法的に、ものを運ぶ際に中身をしっかりと守ってくれるのはありがたいが、ガチガチに守ろうとしすぎてバッグを運ぶのか中身を運ぶのかわからなくなるようなものでは困る、といったふうに、「ある原則に照らして」道具の良し悪しを判断する、という姿勢が必要になってくるのだ、ということです。

ところが、この作り手の原則というものは、あらかじめ明記してあることばかりではなく、また、使い手が違ったふうに使うこともあり、さらには、読み終えた新聞紙が暖を取るために使われたりというふうに、使われ方によって変化してゆくものですから、アタマの堅い人間は、ひとつの道具をひとつの機能と無理矢理直接的に対応させようとして屁理屈を強弁するか、はたまたそれが不可能と見るや原理主義を棄てて、道具の目的は人によって千差万別だから論じること自体がおかしいといった極端な相対主義に転がり込んでゆくはめになるのです。

極端は真逆の極端に通じるという茶番はここでもありありと見られるのですが、ではわたしたちはどう考えてゆくべきなのか?、みなさんはもうご存知のはずです。

素朴な常識では、いくら安全だからといって、町中を歩くのに防弾チョッキを着て歩くようなことはしないものです。それはほかでもなく、身体の安全を守るという目的について考えるときにも、転んで痛くないか、寒さから身を守れるかといったことから、銃撃されても死なずにすむか、といったことまで、「安全」というものについて一定の範囲があるのだ、ということを意味しているわけです。

もう十年ほども前のことになりますが、Apple社が初代のiPodをリリースして、わたしがその機能性に惚れ込んで買い求めた時、それを見たオタクの友人は、「そんなものが必要か?音楽なんか、ノートPCにイヤフォンを指して聞けばいいじゃないか。いくらでも入れられるぞ」と言っていました。

じゃあノートPCはどこに入れるのと聞くと、背中のリュックサックに決まってるだろ、とのこと。

みなさんは、これが良いアイデアだと思いますか?

道具というものには必ず、その前提として、ある目的を達成する、という目的意識が働いています。ですからそれを考えるときにもやはり弁証法的に、ひとことで言って、「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」、と、目的に照らして考えてゆかねばならない、ということです。

では、お便りを見てみましょう。

◆◆◆

>初見での感想…「G1」の顔が透けて見えるのは私の単なる錯覚からでしょうか。

なるほど、気づきませんでした。
では、というところで比べてみましょう。
図1)自転車バッグG1の型紙
(どうでもいい話ですがG1は最近改修され、フロントだけでなくリアにも付けられるようにしたので、
自転車「フロント」バッグ、ではなくなりました。)

図2)キャンバスバッグのフェイス部の型紙
G1のフェイス部は、わたしの大好きな生き物、梟のくちばしの部分をイメージしており、実は精確に角度を計算しながら作ったものではないので、できたもののどの部分を測るかによって角度は変わってきてしまいますが、たしかに共通するシルエットであるということはできますね。

しかしこれも偶然の一致、というのではなく、おおまかにはそれなりの理由があってのことです。

これを見てください。

左がG1、右がG1R。
写真のG1は、おもに自転車のフロント(前面)につけるもの、G1Rはリア(背面)につけるもの、です。

この二つのバッグのフェイス部を見比べてみて、そのデザインのうち、どこが最も違うのかわかるでしょうか。ヒントは、デザイン上のアクセントとなっているコンチョの相対的な位置です。

答えを出すのはもう少しあとにしましょうか。
このことを考えながら、以下のご質問・ご指摘を追ってゆくことにしましょう。

◆◆◆

>肩掛けベルトのカシメ部が少し斜めなのは、不自然な応力が生地と革の双方に懸からないことを意図したものと推察できます。デザイン的にはカシメ二つの延長上にコンチョが配されているので、これは「G1」の嘴に当たる部分を意識されたのではないでしょうか?コンチョの位置はコレより下だと間延びした間抜けな表情になる気がします。

ご推察のとおりです。


2本のベルトを固定しているカシメ(真鍮色のボタン状のもの)をすべて通る直線上に、コンチョが配置されています。

コンチョの位置をこれよりも下にすると、デザイン上の統一性がくずれて、全体として、いくつかの意匠が混在するというチグハグな印象になったでしょう。

ではもし仮に、カシメがこの角度でなかったとしたらどうなっていたでしょうか。
たとえばカシメ4つが、横一直線上に並んでいたら?

一直線上に並べると、バッグ上部に渡してある革の部分と干渉することが気になる方もおられると思いますが、それを問わないことにしても、わたしはやはり、コンチョはやや下げたところに配置したのでは、と思います。

これも、さきほど出した問題と共通する理由によって、です。

◆◆◆

個人的に一番着目したのは、持ち手部分を頂点とした時に形成される角度(約60度弱か?)です。ロッククライミングを齧った者ならばいざ知らず、まさか始めから「荷重分散の角度の影響」(※)まで考慮していたとは思えませんし、よって、実際に手に持った感触やら考慮した上で機能美を追求した結果、自然と導き出されたのだと勝手に良いように解釈しているところです。

下記サイトではロッククライミングでの確保理論が解りやすく図解されていましたので、参考まで。
※)ttp://www.alteria.co.jp/sport/technique/Rock-Climbing-Equalized-Anchor/

なるほど、たしかに言われてみると考えておくべきだったかもしれません。
ですがこれも、基本的な合力の計算以上には考えの外でした!

というのも、今回は残りものの帆布と革で作ったもので、素材はギリギリのぶんしかなく、キャンバスが本当に入ってくれるのかどうか、といったところでしたので、その厳しい縛りのなかで考えられる数パターンを自分の体にあてがって測ってみて、いちばん具合の良いものを選んだに過ぎなかったからです。

わたしのものづくりは、どんな事柄にでも何らかの理由がないとおさまらない、という気質もあってそのとおりに進めますが、一方で、理屈一辺倒になってしまっては素材というとても大きな特殊性を十分に考慮することができませんので、やはり実際に使ってみて実験せねば、という考えがいつもあります。

しかし次に頼まれて同じようなものをつくるときには、考慮すべき事柄ですね。
良いことを教えていただきました。お礼を申し上げます。

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>また、肩掛けベルトが描く放物線の、見えない延長線上にバッグのコーナーが現れているように見えなくもありません。このライン取りが全体としてのデザインの根幹を成しているのではないでしょうか?

たしかに、このことについては検討しました。


ただ、実際に出来たものについては、ベルトが描く放物線の延長線よりも、やや外側にバッグのコーナーがきていると思います。

タテ型のトートバッグなどなら、この点ぴったりと収まるのですが、なにぶん平たく大きいキャンバスを運ぶためのバッグですから、2本のベルトのあいだの幅については、それこそ機能性を意識して位置づけることがなければ、使いにくいものに仕上がってしまうのです。

2本のベルトが近いところにきすぎていると、つまりベルトのあいだの幅が近すぎると、肩にかけたときに、肩を頂点としてキャンバスの前後が左右にふらついてしまいます。

逆に、2本のベルトが遠くにありすぎると、ベルトが長くなりすぎて取り回しが悪くなったり、バッグの上部両端に力がかかりすぎて、バッグの型崩れを招く原因となってしまいます。

手持ち、肩掛けの2パターンを、ベルトを交換する、または両方実装できるようにする案もありましたが、わたしの場合は、手持ちのバッグで常に片手が塞がれることが身体運用上どうしても受け付けらないために、はじめから肩掛けすることを前提としたバッグとなり、そこにさきほどの素材上の制限が加わったことで、このような機能・デザインとして落ち着いたという経緯がありました。

素材が豊富に手元にあったときには、ご指摘にあったようなデザインも検討したかもしれませんね。

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>あと、実際に手にして見なければ確認も出来ないのですが、取っ手方向からのテンションの掛かり方を想像するに、おそらくは空荷の状態で取っ手を掴んで持ち上げても、留め位置の配置上から真ん中が不細工に口を広げたりもしないし(←手持ちのトートバッグで確認済み)、柔軟な帆布生地であっても端整な形を保てるのではないか?とも考えました。素人考えですが、留め方によっては変な皺が入りそうな気もします。

空荷の状態で取っ手をつかむと、バッグが型くずれするということは、素材によっては、十分にありえると思います。

今回のバッグでは、中身のキャンバスを抜いた状態ではこんなふうになります。


写真を見ると、角度上の問題があり、バッグ背面が椅子に支えられているようにも見えますが、これは実は触れていませんので、全体がこなれてくるとたわみやすくなりますが、現時点ではそれほど妙な形にはなっていないことがわかります。

これについては、バッグの上部に革で縁取りを縫い付けることで、帆布のほつれ止めとともに、バッグ全体の型崩れを図ったことがうまく効いてくれたものと思います。

また、バッグに使った帆布も、実はバッグ用のものではなく、相撲のまわしや船舶に使われる3号帆布という、厚みが1.4mm弱あるものですので、革を併用せずに一般的なバッグを作った場合にでも、「十分に立つ」(素材を分けてくださった方談)、ものなのでした。

通常、バッグ用に使われるのは6号(1.1mmほど)以下の帆布ですから、まともな神経では手縫いなどしないのではないでしょうか。

このことは、最後のご質問にも関わってきます。

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>カシメ位置の裏側がどのような補強のされ方をしているのか興味があります。コンチョとカシメの位置関係は横幅を四等分した位置かとも思いましたが、どうも違う。凝視すればするほど初見で感じた「G1」の顔が被って見えるのですが、これは私の単なる錯覚からそうなるなのかもしれませんし、贔屓目や先入観が無理矢理に解釈をこじ付けようとしているのかもしれませんね。

ここが、道具本来のあり方、道具の本質をしっかりと見ようとする、質問者さんの観点を、読者のみなさんと共有して学んでゆきたいところです。

ここではどのようなことが述べられているかということを説明しますと、たとえば革という素材は、それなりの強度がありますから、それを使ってこういった大型のバッグを作るとなったときには、バッグ本体部に直接、ベルトを金具で打ち付けてしまってもよいのです。

しかし本体部に、帆布という素材を選ぶときには、それと同じ手法で十分な強度が確保できるのか?ということ、この、素材を相互浸透の関係で対比することによって浮かび上がってくる疑問が、質問者さんの言わんとしていること、というわけです。

素材が違えば当然にその実装方法も変わってくるべきなのですが、世にある道具は…、と、もう繰り返さなくてもよいでしょう。

◆◆◆

さて、これについては裏側を見てもらえると一目瞭然です。


オヤッ、直接縫い付けてしまっているとは!?革と帆布は別の実装にしなければと言ったばかりではないか??と思った読者の方は、焦らないで聞いてもらいたいと思います。

たしかに、ここを、「革と同じような実装方法で」取り付けてしまっては、つまり、本体部にポンチを使って穴を開けて、ベルトと金具で固定するような方法を採ってしまっては、そこから帆布がほつれ、ほつれて、意気揚々とキャンバスを持ち運んでいる最中に、本体がベルトから外れて落下、ということになっていたでしょう。

ではどうしたのか?と言えば、これは帆布の本体部に金具を取り付ける時に、ポンチで穴を空けるのではなく、「帆布を縫ってある糸の隙間に金具をくぐらせて」、取り付けてあるのです。

これは今回の帆布が、さきほども述べたように特厚の3号であり当然に相当に太い糸で縫われていることによって採用できた方法なのでした。当て革をしてポンチ穴をあけるよりも、このほうが、帆布の縫い目を伝って四方に重さを分散できますから、より丈夫になると考えました。

わたしも、道具を機能的な必然性から考え始めますので、道具を運搬中に、内容物が落下したりはみ出たりするような道具を見ると、顔をしかめたくなります。

自分でものづくりをしているときも、やはりそういった、道具本来の目的を損ねているようなものだけは作るまいと常々思っていますが、ではどうやってそれを達成するのか?をひとことで言えば、道具の信頼性を、単に表現ではなく、その「構造」に置く、ということになります。

この「構造」は、学問レベルの<構造>ほど弁証法的で高度なものではありませんので、あまりビックリしてもらわなくてもよいかと思います。次回以降の革細工の記事でも取り上げますので、具体例を簡単に示しておきましょう。

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たとえば以下のバッグ前面を見てみてください。


あなたがこのバッグを使うときには、当然ながら上部の取っ手を持ち上げて運ぶことになりますが、革でできたその部分はともかく本体部の帆布の部分については、やや心許ない印象を持たれる方も多いと思います。

「重いものを入れた時に、帆布の部分が重量を支えきれずにちぎれたり型崩れしていってしまうのでは?」という感想を持たれる方もいるのではないでしょうか。

もしそこまで明確に不安感を言明できなくとも、「なんとなく」といった感性的なレベルで不安を覚える方もおられるはずです。

では、どうすれば帆布の素材上の弱さを補って、この不安感を払拭できるのでしょうか。

それは、このバッグの背面を見てもらえるとわかります。


さきほどの前面の写真と考えあわせて、わかってもらえるでしょうか。

前面と同じように、タテに2本のベルトが底面部から延びており、しかもそれが、しっかりと帆布の部分に縫い付けられていることがわかりますね。

ですからこのバッグは、内容物を支える構造として、まずは内容物の重さが直接、革を貼った底面部にかかり、持ち運ぶときにはその重さが、前面と背面の2本ずつのベルトを通して吊り下げられることから、いわば、「本体の帆布部がなくとも」、それなりの強度を保ちながら内容物を支えられる構造となっているわけです。

たとえばひとつのバッグを見た時、「心許ない」という感想を抱くというのは、位置づけとしては、「使われている帆布が実は相当に丈夫なものである」ということを知る前の単に感性的なものですが、わたしとしては、よくできた道具は、ぱっと見でも信頼に足るもの、安心感を与えるものでなければならないと思っています。それにはやはり、ここで述べる構造の観点が重要になってきます。

◆◆◆

わたしは学生の頃、スーパーで品出しのアルバイトをしていた時、そこでの直近の上司が、蓋のない木箱を逆さに向けて上下に2つ積み上げていたのを見て、「とても危なそうだ」と思いましたが、果たしてその上にカゴで盛られた茄子は、そのあとすぐ、売り物にはならなくなっていたものです。

これは、目的を果たすための構造が、満足に満たされていない実例であると言えるでしょう。

この構造は、意識して見ることのできる者でなければ、どうしたって気づくことはできないのです。わたしのこの上司は、カゴの茄子が落下した原因を、不注意な客が小突いたせいだと言っていましたが、残念ながらそうではありません。わたしが積んだときには、決して崩れたりしませんでしたからね。

◆◆◆

さて、ここまでご質問にお答えしながら述べてきましたが、記事の半ばに出しておいた問題にも忘れずに答えておかねばなりません。

わたしは、こう述べました。
この二つのバッグのフェイス部を見比べてみて、そのデザインのうち、どこが最も違うのかわかるでしょうか。ヒントは、デザイン上のアクセントとなっているコンチョの相対的な位置です。
その写真は、こういったものでしたね。


左側のG1が、フロント用。右側の G1Rが、リア用です。

フロントとリアで、まったく同じ意匠で良いのか?というと、実はそうではない、というのがほとんど答えなのですが、双方のコンチョの位置を見ると、左側のものは、コンチョが、その左右の盾型のエンブレムよりも下に来ており、全体としては下向きの三角形になっています。

それにたいして右側のものは、コンチョが、その左右の円形の金具よりも上に来ており、全体としては上向きの三角形を形作っています。

というのも、誤解を恐れずに言えば、人間の意識として、二辺が下向きに交わる直線はものごとのはじまりを、上向きに交わる直線はものごとの終わりを示すものとして意識にのぼるもの、だからです。

これだけを述べると、唯物論者も語るに落ちたものだ、美意識の根拠をよくあるセオリーに委ねるとは!と思われても仕方ありませんが、美意識の生成・発展については、部分部分の事実を断片的に述べても本当の学問のレベルではなんの説得力もなく、そもそも誰も論じきったことがないことだけに、どうにでも捉えられてしまうものですから、これはいずれもっとフォーマルなかたちで世に出したいと考えています。

そうは言ってもそれだけでは…なんとなくでもわかりたい、という方は、四本足で歩く哺乳類を、真正面から見た時と、真後ろから見た時でどのような印象の違いがあるかな?と、実際に写真を見ながら考えてみてください。

それも、身体・認識を含めた人類の発展という過程性を念頭に置きながら見るとどうなるか…というところが追えるのであれば、この問題だけでなく、美学上で未解決とされている問題が色々ときれいに片付くはず、と思うのですが。


さて、お便りが嬉しく、ずいぶん長々と書いてしまいました。

お便りはいつも楽しみにしていますので、お気づきの点あれば随時。
自己紹介のいちばん下にわたし宛てのメールアドレスがありますので。

2013/05/08

本日の革細工:キャンバスバッグ

GWは、


自転車ツアーへ行っておりました。

道中、思いもかけずレザークラフトのある分野の第一人者と知り合い、自分の作品を見てもらうという幸運に恵まれました。

わたしにとってのその人は、芸術論の実践にと革という素材を選んで2年と少しの、若輩もいいところの自分にとっては雲の上のような存在の方ですが、とても熱心に製作工程まで遡って見てくださり、なおのこと激賞までいただいてしまったとあっては、満足にお返しする言葉すらなく、ただただ呆然とするばかりでした。

人生とは不思議なものです。

数年前、失意のうちにある学会を出ることがなければ、
それでも日本の文化を本質的に前進させることだけは諦めきれなぬのでなければ、
また寂しさの中での旅で手持ちの革ケースが水に濡れて縮んだのを見ていなければ、
至らぬ技術で作った作品のオーナーが喜んで使ってくれているのでなければ…

という、ありとあらゆる「でなければ」がひとつでも欠けていれば、この日という時も訪れなかったのだな、という思いが、いま頭の中を駆け巡っています。

このことだけでも細い細い綱の上を渡るようなものであるのに、たまたま通りがかった地方の商店街で、ふと目についた個展に足を運んだということが、これほどまでの転機となろうとは、三文小説家でも書くことを躊躇するほどの、あまりにも出来過ぎた話です。

わたしの動きの鈍い頭では、まだまだ満足にことの事情が飲み込めずにいるのですが、しかしともかく、まったくの偶然、たまさかの僥倖にだけその身を委ねているわけにゆかないことだけは確かです。

世にある、人知れず本質への道の努力を続けておられる人たちのためにも、この仕合せにあぐらをかかず、両の足でしっかりと前に進み、確かな文化と理論を残してゆこうと祈念する次第です。

◆◆◆

さて、今回見てゆくのはたいしたものではないのですが、冒頭の写真のとおり、大型のバッグです。これは、キャンバス(画板)を入れて持ち運びデッサンするためのものですね。

こう書くと、熱心な読者のみなさんは、「あれっ、たしかにここでは革細工はよく見るし、去年は彫刻もやっていたと言っていたが、平面造形のデッサンもしているとなると、それは立体造形とどういう関連性があるのかな?」と思ってくださったかもしれません。

新しい読者の方は、単に「へえ、色々やるものだなあ」という感想かもしれませんね。

前者の疑問をいきなり抱かれた人は相当な人物だとお見受けしますが、結論から言えば、デッサンというものは、芸術にかんする基礎修練のうち、平面でも立体でも変わらずいちばん必要なものだ、と言っても間違いにはならないと思います。

そもそもデッサンとは何かといえば、鉛筆や絵コンテで画用紙にただ描く、というものでしかなく、平面造形の素描のようなイメージがあり、作品が完成したときにはもはや姿が見えなくなってしまうので、「ある程度できればよい」という捉え方をされることもあるでしょう。

◆◆◆

しかし、自らの専門分野がどういうものであろうとも、その上達の方法を正面に据えて扱うのなら、「完成すれば素描は消える」という見た目だけの現象に惑わされることなく、上達のためには一体「何」を、「どのように」取り組むべきなのか、ということを、その構造に立ち入って考えておく必要があります。

今回はせっかくデッサンのお話になったので、上達論のほんの入口として、少し考えてみましょう。
上達論のない人は、やってもやっても上手くならないどころか、やればやるほど下手になる場合すらあるのですから、実は、とてもとても大事なことなのです。

美大の実技を通るためだけにデッサンをする場合には、ただそれなりに上手ければよいという論法になりがちですが、先ほども言ったようにここでは、そういった見た目上のことがらではなく、その構造に目を向けてゆきたいところです。

◆◆◆

正しいデッサンとは、単に(筆の運びが)上手いデッサンのことを言うのでしょうか?

いいえ、そうとは限りません。

デッサンをするためには、そこには対象となるものを正しく認識することと、それを表現へと正しく写しとるための技術が要るからです。

ここで注意すべきなのは、この二つの構造は相対的に独立しているということです。
この結果、見えてはいても表現できなかったり、大して見えていなくても表現はできてしまったりすることが出てきます。

たとえばりんご一筋40年の農家のおじさんは、対象となるりんごを一目見て、その色・艶・形を、品種や味の良し悪しまで判別できるレベルでよく見ることができますが、その認識に鉛筆の運びという技術がついてくるとは限りません。

それとは逆に、美大に入るためにりんごのデッサンは毎日のようにしていたので、何も見ずともそれを描けるまでになってはいても、ただただ技術を磨くことに忙しく、またそれに満足してしまい、対象をよく見るという姿勢や習慣が失われてしまっている場合もあるでしょう。

これらの相対的な独立を見るという実力を養っているのでなければ、美術家としては、単に絵が上手い「だけ」の人になってしまったり、美術実践の指導者としては、学生のデッサンのまる覚えの惰性的な繰り返しを見抜けず、両者の性質が相まって、芸術に絶対的に必要なはずの創造性を欠いた学生を育ててしまうことにもなりかねません。

ひとつの対象を見てそれをデッサンするということは、単に鉛筆を走らせる技巧や、練り消しゴムの先を尖らせてうまく光沢を表現するといった技巧、つまり技術の側面だけに限ることではなく、「対象をよりよく見る」ことに、もっと主眼が置かれるべきなのではないかと思いますし、なおのことそこを、より目的的に取り組む必要性が理解されるべきではないかと思います。

単純化して言えば、認識できないものは表現しようもないのですから。

その意味で、水彩画・油絵などの平面造形の場合はもちろん、立体造形の場合にも、扱う対象をよりよく見るために、認識する力を高めることは必要なのであり、またそれを高めるための指導が必要なのであり、その基礎修練としてデッサンは大きく必要とされるはずのものです。

ここでの記事を、本当に熱心に読んでくれる方は、このように考えてゆく姿勢を、自らの専門分野を歩むために、ここで扱われている対象の扱われ方、つまりその論理構造に目を向けて読み進めてくださっている方であると思いますので、今回もそういう意味で役立ててもらっていれば、いちばんの役目が果たせて嬉しく思うところです。

認識と表現の相対的な独立の構造を、自身の専攻する分野の上達の問題として考えてみてください。

◆◆◆

さて、今回はたいして書くこともないと思っていたら脱線が高じてここまできたのですが、バッグ自体はいたってシンプルです。

余った革と余った帆布を組み合わせて、創作活動に必要なものを作っただけですから。

強いて考えてもらえるところがあるとすれば、ひとつには、バッグの表情になっている部分のデザインが、どのような根拠に拠っているのか、というところでしょうか。

コンチョつけないと気持ちが入らないのです。

上の写真を見ると、長めにとられた肩掛けベルトの留め具が、やや傾いて着けられていますね。

このボタンが2つずつ、正面には合計4つつけられていますが、このボタンと中央のコンチョはどういう位置関係にあるでしょうか。

また、コンチョがより上だったりより下だったりした場合には、どのような違いが現れてきたと思いますか。

◆◆◆

もうひとつ考えるべきところがあるとすれば、バッグ上部の両サイドにつけられたミミの部分です。これにはどんな機能があるかわかるでしょうか。


ヒントとしては、次の写真です。(猫は関係ありません)

帆布は生成りなので、絵の具がついて汚れてくると実に良い感じになるはず。

今回のバッグは素材となる帆布の大きさが限られていたのもあり、画板がややきつめに収納されるようになっていることがわかり、製作途中であわてて着けました。

ゆったりめなら必要なかったかもしれませんが、ミミがあるほうが便利なのは間違いないでしょうね。その機能を考えてみてください。


今回は軽い準備運動でした。
次回の記事では、残りの帆布を使ったものについて触れてゆきましょう。