2012/05/25

文学考察: 木精ー森鴎外 (2)

(1のつづき)


前回のさいごで、物語の進展とともに「フランツの木精についての理解が、どのような段階へと発展していっているのか」を追ってみて欲しい、ということをお伝えしておきました。

そうお願いした理由は他でもなく、この作品をより深く理解することにつながるからなのです。

また今回のような作品に取り組むとき、こうしたことに注意を払っておくことは、次のような点でも重要です。

子供の心情を描いた作品を読んだ時にわたしたちは、「この作品は子供のみずみずしい感受性を見事に描いているな」という感想を抱くことがありますね。

そのときわたしたちが感じている「子供らしい感受性」というのは、いったいどういうものなのでしょうか。
「子供らしい」と表現するからには、わたしたちはそれを、自分自身が心身ともに大人まで発展してきたという過程をふり返るようにして、「子供の頃には、たしかにこんなふうな感じ方をしたものね」と、登場人物の喜怒哀楽に二重化しながら楽しんでいるわけです。

わたしたち人間は、毎日を特に際立った問題意識を持って過ごしてきたわけではなくとも、ふと振り返ってみれば、そこには明確に質的な変化が見られるのであり、大人という立場になってみればこそ子供という立場もわかるのであり、そしてまた、大人になって失われてしまったものや、取り戻すべきものがわかるのです。
(個人の生涯を見た時にも、弁証法という運動法則が働いているのがわかりますか。この一文を三法則に照らして読んでみてください)

今回の作品や、前回の記事でヒントとして挙げておいた豊島与志雄『風ばか』という作品では、少年から青年への移り変わりや、子供と大人の移行や対比が描かれるかたちで、「子供らしい感受性」というものが、一層際立つ構成になっています。
この構成は、当然ながら筆者が大人にまで成長したからこそできる工夫なのです。
(子供が書いた作品の、大人と子供の描き方はもっと違っていますよ)

ですからわたしたちも今回、その助けを借りながら、筆者が描こうとした「子供らしさ」、またわたしたちが作品に触れながら共感できる「子供らしさ」の持っている構造をたぐることをとおして、「より深く」作品から学びながら、自分自身の認識論と創作能力の向上に活かしてゆくべきでしょう。

今回の評論を読むと、論者はその実力からするとあまりに単純に「子供」と「青年」ということばを(その内実をよく知らないまま、よく調べないまま、つまり像の薄いままに)使ってしまっているのではないかな、と感じられるのです。

◆◆◆

さて、では改めて作品を読むことにすると、この物語の大まかな展開は、「フランツ」という主人公が、少年のころには返ってきていた木精(こだま)が、成長して同じことをしたときには呼びかけにこたえなかった、というものでした。
その理由をフランツは当初、「木精が死んだ」ものと解釈しましたが、よその村の少年たちには木精が返ってくるのを見るにつけ、自分の理解が誤りであったことに気付かされます。

物語の展開はこのようになっていますから、フランツの少年期と、木精が呼びかけに応えなくなった青年期を比べてみると、彼と木精との関係がどのように変化したのかがわかるでしょう。

◆◆◆

ここではフランツの内面よりも、事実的にどうなっているのかを確認しておきましょう。
まず少年期の記述はこのようです。
麻のようなブロンドな頭を振り立って、どうかしたら羅馬(ロオマ)法皇の宮廷へでも生捕られて行きそうな高音でハルロオと呼ぶのである。
呼んでしまってじいっとして待っている。
暫(しばら)くすると、大きい鈍いコントルバスのような声でハルロオと答える。
これが木精(こだま)である。
少年期には、木精は呼べば答えるのが当たり前、だったのです。問題はそのあとです。
フランツは段々大きくなった。そして父の手伝をさせられるようになった。それで久しい間例の岩の前へ来ずにいた。
このような期間を挟んで、彼は青年期にはどうなったのか?という目的意識を持って、彼の主体的な条件の変化に着目しましょう。

◆◆◆

前述した少年期と、次の青年期の記述を比べてみてください。
フランツは久振(ひさしぶり)で例の岩の前に来た。
そして例のようにハルロオと呼んだ。
麻のようなブロンドな頭を振り立って呼んだ。しかし声は少し荒(さび)を帯びた次高音になっているのである。
わたしたちはここで、科学的な観点にたって、やまびこやこだまの原理を持ちだしてくることもできます。
しかしそんなことをしなくても、この作品のなかに、この作品なりの十分な説明がなされていることに気づくはずです。

そうです。フランツが少年期には木精と話すことできたのに、青年期になるとそれももう叶わないものとなったのは、彼の声が、「どうかしたら羅馬法皇の宮廷へでも生捕られて行きそうな高音」から、「少し荒を帯びた次高音」になっていたからなのです。

しかしフランツにあっては、この主体的な条件の変化に気づけなかったことから、木精が返ってこないという現象についての説明がつかず、その原因を木精側に押し付けるかたちで、「「木精は死んだのだ」とつぶや」くことになった、というわけなのです。

◆◆◆

ところで彼の認識は、次のシーンではすこしばかり前進していることが伺えます。

それは物語のさいごの部分で、見知らぬ子供たちが、少年のころのフランツと同じように木精を呼び寄せているところを目の当たりにして、「木精の死なないことを知った」というところです。
あれはおおかたその村の子供達だろう。あれが呼ぶハルロオには木精が答える。自分のハルロオに答えないので、木精が死んだかと思ったのは、間違であった。木精は死なない。
彼のもとに木精が返ってこなくなったのは、「木精が死んだ」からではなかった、ということになると、その原因を木精の主体的な条件に帰することができなくなります。

ぼくはなにも変わっていない、木精はまだいるようだ、そうすると…?
と考えてみる段になると、フランツの認識も次の段階へと達します。

子供たちが呼んだときには木精から返事があり、自分が呼んだときには返事がないのですから、これは思いもかけず、木精が返ってこなかったのは自分の方に問題があるのではないか、という疑念が首をもたげてきます。

しかし、本人は、物語中に客観的な表現として書かれているような、声質の変化に気づいているわけではないことから、その疑念と同時に、「ひょっとすると、木精は自分と相性が悪くなったのではないか?」という疑いもが芽吹き始めているというわけなのです。

ここでの彼のアタマの中には、問題が木精にはなかったことを手がかりに、「自分」か「木精と自分の関係」かに、問題がありそうだ、という疑念が生まれつつあります。

さきほどの引用と重複しますが、その表現を見てみましょう。
 群れを離れてやはりじいっとして聞いているフランツが顔にも喜びが閃(ひらめ)いた。それは木精の死なないことを知ったからである。
フランツは何と思ってか、そのまま踵(きびす)を旋(めぐ)らして、自分の住んでいる村の方へ帰った。
歩きながらフランツはこんな事を考えた。あの子供達はどこから来たのだろう。麓の方に新しい村が出来て、遠い国から海を渡って来た人達がそこに住んでいるということだ。あれはおおかたその村の子供達だろう。あれが呼ぶハルロオには木精が答える。自分のハルロオに答えないので、木精が死んだかと思ったのは、間違であった。木精は死なない。しかしもう自分は呼ぶことは廃(よ)そう。こん度呼んで見たら、答えるかも知れないが、もう廃そう。
◆◆◆

ここまで追ってきたフランツの認識が、どのような発展をしていたかがわかりましたか。
以下ではそれをまとめておきましょう。

それは形式から言えば、「木精が返ってこなくなったのはなぜなのか?」という問題について考えてゆくなかでの、彼なりの「木精とはなにか?」の発展のかたちをとっていたのでしたね。

・木精というものを漠然と捉えている段階
↓しかし、青年になると木精は返ってこなくなった
・木精を主体であると捉えている段階(「木精は死んだ」)
↓しかし、子供たちの呼びかけには答えた
・木精を自分との関係性において捉えつつある段階

ここで、フランツが少年から青年へと育ってゆくにつれて、当時持っていた木精への理解が、ある出来事によって覆されるという契機を経ることで、ジグザグな道をたどりながらもなお、確かなものへと発展してゆくさまがわかってもらえるでしょうか。

漠然と捉えていた木精を、第一の契機(上図でのひとつめの“↓”)を境に一つの固定化した実在と見なしてしまったことは、あまりにも極端に考えすぎたことによる誤りでした。
ですが、その誤りは次の契機(上図でのふたつめの“↓”)によって正され、元の道へと戻りつつあるのです。

ここで「つつある」とことわったのは、この物語を最後まで読んでも、フランツは、木精について正確な認識には至っていないからです。

つまり彼にとっては、「木精はかたちを持った主体なのではなく自分が発した音声が山に反射して返って来た音であり、なんらかの形を持った実体なのではなく音声と山とのあいだの関係性において成り立つ現象なのだ」という段階にまでは明確に達することができていないということです。

それでも読者は、彼がいずれ正しい理解にたどり着くであろうことを、物語の終わりの時点での彼の認識のあり方を、読者自身の頭の中で観念的に延長させて予期します。

◆◆◆

ここまで述べてくれば、この作品が捉えている「子供らしさ」というものが、どのような構造を持っているかがわかってきたでしょうか。

今回フランツがたどったような、認識の発展段階のどこか、またはそのジグザグの道程を歩むという迷い方に、「「子供らしさ」とはどういうものか」についての構造を解く手がかりがあるようですね。

現実に生きている子供たちも、子供は子供なりに、彼女や彼らが遭遇した契機によって、それまでのものごとの見方や価値観というものの変更に迫られる中で、ジグザグな道をたどりながら、一定の発展段階へと認識を深めてゆくのです。

大人が子供のふりをして書いた作品の中に、「子供らしい」ではなくて単に「子供っぽい」印象を与えるものがありますが、それは子供は子供なりの合理性を持ってものごとを見ているのだ、という理解が欠けているからではないでしょうか。

子供の感じていたり考えていることを、大人の立場から見下ろすようにしてレベルの低いものと一蹴したり脇に片づけたりせずに、正面から見据えてどのような合理性があるのか、どのような考え方でそのような結論にたどり着いたのか、そのどこに問題があったのかということを捉え直すのならば、認識論という観点からすれば宝箱のようにさえ思えてくるでしょう。

またより大きな観点からしても、科学は「事実からはじめる」ものであるがゆえに、他とは違った考え方をする子供を目にした時に、「あの子は特別だから」と例外として扱うのではなく、それがどんな性質でどんな性格であっても、「存在するものはすべて何らかの合理性を持っている」という原則をわきまえることなくして、何らの研究の発展も見いだせないものと厳として自省しておかねばなりません。

◆◆◆

それができるためには、何はなくとも認識論が必要なのですが、ではどうやって認識論を探求すればよいのか、と言えば、常々どんな行動やどんな振る舞いをするときにでも、「この人はどんなことを考えているのかな?今の自分はどんなふうに見えているのかな?」と、相手の立場に立って考える修練をしておればよいのです。

こう言うと簡単なことのように思ってしまう人がいることが、そもそもの大問題です。

今回扱ったようなごくごく短い短編でも、あまさず理解するためには上記してきたように変化を捉えた上で、その根底にある構造をたぐり寄せることが必要です。
さらには以前に『風ばか』で試みたように、登場人物の認識のあり方はさらに深く掘り下げて考えてみることもできるのです。

翻って現実の世界をみると、そこで生活している人々は、物語のなかで設定されているよりはるかに多くの悲喜こもごもを抱きながら生活してきており、また生活しつつあるのですし、そこには筆者の表現上の手引きもない以上、その認識を読み取ることは、物語などよりもさらに難しいものであることは承知してもらえるはずです。

◆◆◆

さて、今回の記事ですこし掘り下げて考えてみたように、このような認識の発展の構造をとらえてはじめて、それを一言で要するかたちで「フランツは青年へと成長しつつある」と述べることができるというわけです。

「青年」を述べるからには「少年がどういうものか」がわかっていなければならず、「成長」を述べるからにはその過程の内実がどのようなものであるかをわかっておかねばなりません。

ひとつのレポートを書く際に自らに課す、このような厳しい制限は、一般の読者に知られることは非常に稀で、むしろ期待するほうがおかしい、というくらいのものなのですが、それでも一流を目指すのならば、一歩一歩の道程を、どこかにもっと深めてゆける余地があるのではないか、という注意を払いながら取り組むべきなのです。

いいですか、わたしたちは、これだけの注意を払って、これだけの意味を込めて、ひとつのことばを使わねばならないのです。
難しい概念を今日覚えたから明日使おう、などという姿勢では、一流の認識を養うこと、それに基づく創作活動などは到底なし得ないのです。
わたしたちがひとつの作品から引き出している<一般性>というのは、学問で言う<概念規定>なのですから、いま持ちうる全力でもって、一言一句もうこれ以外に考えられない、という文言を提出すべきなのです。

構造を読み取ることができれば、このような短編小説から「「子供らしさ」とはどういうものか」、という人間にとって極めて重要な像を描いてゆくきっかけを得ることができるのですが、その姿勢がなければ、認識論の実力も、最終的には人格も磨いてゆくことができなくなってしまうのです。
目的意識こそが人間を決める、という極意論は伊達ではありません。

この作品は、その全体を通して、自らの少年期に楽しみを与えてくれた木精を新しく来た子供たちに譲り、これまでの季節とは別れを告げて、自らは自らの新しい時期へと歩みを進めようというフランツの姿が、ほかでもない木精によって浮き彫りになっているのですから、一般性を<木精がうながす少年時代との別れ>などとまとめておくとよいでしょう。

論者は物語と向きあうなかでの認識論の実力を、より深化させる段階に来ているはずです。


(了)

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