2011/08/31

どうでもよくない雑記:友人と人探し

北の国からのお客人を、迎えておりました。


このお客さんというのは、以前にわたしが北海道を自転車ツアーするときにフェリーで乗りあわせて以来の友人です。

わたしがン十万円する自転車で意気揚々と旅立とうという時に、この人物が札幌から青森に降り立ちそこから自走して京都までの道のりを、まさかのママチャリで走破したと聞いたときには、

わたしは道具を使っているつもりが、道具に使われているにすぎないのでは…

という少々マジな自省の念が芽生えたりもしたことが、懐かしく思い返されます。

◆◆◆

今回は残念ながらというべきか、ママチャリで来られたわけではなかったのですが、以前お世話になった人たちにもう一度会ってみたいということだったので、わたしも平日のど真ん中に休みをとって、人生についての議論がてらついていったのでした。

ところが問題は、この「お世話になった人」というのが、どこにいらっしゃるのかがよくわからないことにあります。

京都のどこかの喫茶店で、同志社から渡月橋までの道のりのどこかにあるはずだということでしたが、地図を見ればけっこう広い。

それでも行きたいのは、たまたま立ち寄ったこの店のご主人に、とても良くしてもらったそうで、思い出深いばしょであるとのこと。

◆◆◆

なんだかどこかのロールプレイングゲームのような話ですけれども、旅の中で巡りあった人というのは、普段の生活の中で会いたくとも会えないだけに思い出も色濃く、いつかは、いつかは、という思いだけがくすぶり続けるものであることを、旅好きの人ならば誰でも知るところでしょう。

学生の時には旅狂いと呼ばれた自分にとっても、その気持ちはとてもとても、身に染みて、わかるところです。

とはいえ、探さねばならない範囲は膨大であることに変わりはないので、とりあえずは以前に写真を撮った場所から記憶をたどるように、人探しの旅を始めることに。

京都は嵐山に降り立ち、「店の近くに、あたらしい電車の駅があったような気がする」という記憶を手がかりに、嵐山電鉄に乗ることになりました。
これとて確かな情報ではないので、一日かけていつかはたどり着くつもりで、一日フリーパスを選びます。

駅を外から見たときと、電車の内側から見た時では、その趣はまるで違っていますから、わたしとしては内心、「こんなやりかたで見つかるのだろうか…」という半信半疑の気持ちがあり、二股に分かれる路線図が、余計に不安を煽ったものです。

しかし、車内から落ち着きなく景観を見渡しながら数駅を進んだところで、そのときはやってきました。

「あっここ、ここで降ります!」

駅を降りるやいなや、思わず駆け出した友人の姿を見ていると、旅好きの人間にはぐっと来るものがありました。

◆◆◆

心に焼き付いた記憶というものは、具体的な道路や店の名前、出会った人の名前を思い返せないときにでも、それをみると必ず、「ああここだ、根拠は言えないけれどここに間違いない」という確信をもって蘇ってくるものです。

ここまで来ると、目的までは時間の問題だと思いましたが、果たしてそれはすぐでした。

あれほど会いたかったはずの人といざ会える段になると、どういうわけか少し照れくさく、自分の思い出ほどに相手のそれは強いものではなかったとしたら、記憶の内に留めておくことのほうが懸命なのでは、という不安が首をもたげてくることも経験上わかっていたことでしたから、尻込みする友人の背中を押して、店内に入りました。


ずいぶん話し込んで、長居させてもらったものです。

お店のオーナーさんは、誇りを持ってしっかりと生きようとされている人であることが、身なりや話しぶりからもよくわかる紳士で、友人がこれほど会いたがった理由も、よくわかるほどの素敵な人物でした。

それがお世辞ではないことは、後日どんなことをお話してきたかを書けばわかってもらえるでしょうから、今回は場所だけを。

駅から少し離れてはいますが、嵐山に観光の際には、ぜひ立ち寄ってみてください。


大きな地図で見る

2011/08/29

本日の革細工の下ごしらえ:自転車フロントバッグふたたび

「あっ…!!」


よっぽどの必要ないときは大声を出さないけれども、さっきは思わず。

書きためた原稿が消えてしまった…
あーあ、貴重な睡眠時間が…やっちゃったー!

…と絶望的な気分になったけど、
ゆっくり冷蔵庫まで歩いて、
お気に入りのグラスにロックアイス、
ジンジャエール入れて飲んだら、
気持ちが落ち着いてきた。

覆水盆に返らず、諸行無常。

本文はあとで書き直すことにして、気を取りなおして革細工のお話を。

◆◆◆

休日はいくつか仕込みをしたあいまに人に会っていたのだけど、ひとつには自転車のフロントバッグを頼まれた、というのがある。

新しい革を頼んでおいたので、早くつくり始めたくてたまらないのだけど、型紙を作ったところで問題が。

左から、あたらしいバッグの型紙、前回のバッグの型紙、前回のバッグ実物。
相変わらず写真がひどくてスマンです。画質は、iPad 2で撮ったらこんなふうなんだってば。
ありゃ、これデカすぎないか?

◆◆◆

いちおう、大きさのモデルにしたのはこれ。

オーストリッチのフロントバッグ
これと同じサイズのはずだけど、お風呂の椅子(型紙に噛ませている)とほとんどおなじ大きさのものをフロントバッグに搭載して旅に出られるか?と言われると、疑問が残る。

オーナーは、フロントバッグだけで旅に出たいらしく、前に作ったものよりも大きくしてくれとのことでこうなったのだけど、後ろのキャリアとバッグなしで、前だけに大きいバッグをつけていると、見た目にも不格好だろうというところは、やはりひっかかる。

自転車全体としてのバランス感覚もそうだし、前だけに荷物を積みまくって坂道で前のめりにコケてしまわないか、ハンドル操作に支障はでないのかという走行性としても、あまり好ましくないように見えてきた。

◆◆◆

そういうわけで相談した結果、サイズについては考えなおすことに。

その反面、デザインについてはだいたい決まってきている。
モチーフは次回に言うことにするけども、デザイン案からもちょっとわかってくるかもしれない。


前回のフロントバッグ作成の経験からして、革素材を使うと、どんなに箱型にしたとしても、曲線の部分が出てくる。

今回やってみたいのは、その曲線をうまくデザインに溶かし込むということだ。


デザイン画の段階で、あるいていどどんなふうになるのかをもりこむことにすると、上のようになる。

定規で線を引くべきところまでヨレヨレの線になっているように見えるかもしれないけれど、これは前に作ったフロントバッグの実物が、こんなふうなのを見ながら書いたから。

おそらくまだまだ改善の余地はあって、製作段階のあらゆるところでスケッチは見直されてゆくから、今週あたりは革とにらめっこする日々が続きそうである。
(もちろん、事実的に目の前に革を置くという時間はないので、観念的に、ということだけども)

◆◆◆

ところで、なぜに前回の制作で、ある程度の完成形が得られたものをさっさと潰してあたらしいデザインに向かうのかと聞かれたけれども、それは、個人的に同じことをするのならつまんないということ以上に、オーナーにも積極的にものづくりに関わってもらいたいからである。

この前も言ったけれど、わたしはほとんど素材代しか取らない代わりに、オーナーにも必死に、自分の使う道具について考えて欲しいのである。

市販のものが気に入らなくてともに自作しようというのだから、市販のものを叩き台にして、どこが気に入らないのかを洗い出して整理して、質的にさらに向上させたものにできなければ、自作するそもそもの意味を問われることになろう。

わたしはもともと、「手作りだから粗があるけどそれが逆に可愛いよね」みたいな逃げ口上を用意するくらいならなんにもしないほうが良いと思っているので、必ずオリジナルを、「質的に」越えていなければ困る。まさに真剣勝負である。

そういうわけで、気軽な気持ちで頼んだ知人たちは、内心「オッソロシイ奴に頼んでもうた、どうにか手を切れないだろうか…」と思っているかもしれないけれども、いったん火がついたら止めるに止められないので、完成するまで振り回すことになっているのかもしれない。

◆◆◆

しかし、日々の前進が良くないことだという人間もおるまい。

何もしなくてもお金が入ってくるのなら働きたくない、という人がいるけれども、それは単なる食わず嫌いなだけで、おっくうなのは動き始めるときだということも少なくない。
やったらやったで面白いことがらが見つかってくるのだとしたら、そのときには、お金など入ってこなくてもこれをやりたい、働きたい、ということが、実際にはあるのである。

この共同作業が、わたしにとってだけではなくて、その依頼主にとってもそうであり、そのことをとおして道具に対する愛着をより深める作用をはたすのなら、わたしも道具も、きっと本望であろう。

2011/08/27

本日の更新は、

日が変わってからになりそうです。
お待たせしてすみませんが、またあした見に来てくださいね。

【追記】原稿消えました…詳しくは次の記事で。

2011/08/26

GoogleにMotorolaが必要だと思うわけ (2)

(1のつづき)


今回、GoogleがMotorolaを買収したというのは、水平的拡大を進めてきたGoogleが、垂直的な統合を重視しはじめたかに映ったことが、ひとつの転機と見做されたがゆえに、驚きの声を持って受け止められたということです。

今回Googleが買収したMotorolaという会社は、他でもないGoogleのOSである、Androidを採用した携帯電話を開発している会社です。
Googleの基本姿勢にならってAndroidの基本理念は「オープン」ですから、SamsungやHTC、Sony Ericsonなどのあらゆる会社がそのOSを採用して、自社製品に搭載して発売していますが、その会社のうちの一社を選んで、Googleは買収したわけですね。

今回の買収は、水平的な拡大を進めてきた会社が垂直的な統合をしたということですが、これを少し視点を下げて捉えてみると、これまでソフトウェア会社であったところが、ハードウェアに興味を持ち始めた、ということもできます。

◆◆◆

ここを、「ハードウェア開発に参入した」という側面を大きく取り上げれば、他の携帯電話の開発会社とは利害関係が生じるわけですから、Googleがどれだけうまく火消しをしようとしても、「今後はMotorolaに独占的に先進的な機能を供給するのでは」という憶測の火種はくすぶり続けることになります。

しかし子会社として買収したからには、そこへ先進的な機能を提供して真っ先に搭載した上で市場に問うということは、いわば当然なのですから、問題はその新しい機能の提供を、どれほどの程度で囲い込むか、というところにあるわけです。

そういう意味では、現在も各携帯電話開発会社は、Googleとのコネクションを強めようと、自社の開発者を送り込んでいますから、この先もそれほど大きな心配にはならないのではないかと思っています。

ほかにメディアで論じられていることは、AppleやMicrosoftなどの、コンピュータ業界では古参の会社組織からの特許戦争を仕掛けられていることを回避するための、特許の取得が主な理由であるとの記事などですが、わたしとしては、この買収がユーザーにとって意味があることなのか、ということにどうしても興味を引かれます。

◆◆◆

これまでのAndroid戦略を見たとき、Googleが他のハードウェアメーカーにたいして、それ自体ではほとんどコストのかからない形でどんどんAndroid OSを提供し普及させ、結果としてスマートフォンをこれだけの勢いでユーザーの手に届けてきたまではよかったのです。

現行世代のスマートフォンを開発したAppleといえば、iPhoneのOSをライセンスしておらず、つまり自社でしか使えないようにしているのですから、スマートフォンを万人の手に届けるためには、どこかが他のオープンな形でスマートフォンにふさわしいOSを提供せねばならなかったのですから、Googleのやってきたことは、いくらApple原理主義者から嫌われても、その意味で正当です。

さてAndroidが爆発的な勢いで普及したまではよかったのですが、そのおかげで、一口にAndroidといっても、実際にユーザーの手に届くのは千差万別の端末でしかないことになりました。

なぜなら、各携帯電話の開発会社が、思い思いのやり方で、Androidにアレンジを施してリリースしているからです。(Androidの抱える分断化の問題は、前にも述べました。外部サイトでの参考:Android の分断化問題がよく分かる一枚の写真(Engadget誌の記事))

◆◆◆

メーカーにとっての改変の自由は競争戦略上好ましくても、それがユーザーに届けられる際には、あるていどの合理性をもって設計されていなければ、使い勝手を損なってしまうことがあります。

たとえばフランスは、資本主義の国で自由を尊重しますが、それと同時に、社会保障に目を向ければ極めて社会主義的な考え方をしています。
だからこそ、人々は安定した生活の土台の上で、自由に振る舞うことができるわけです。

一口に自由と言っても、度の過ぎた自由はたんなる無政府主義であり、度の過ぎた制限は恐怖政治なのですから、自由と制限とは矛盾を統一して考えてゆかねばなりません。自由放任"Laissez-faire"には、責任が伴います。

そこをこれまでのGoogleは、あまりにも度外れに、放任しすぎていました。

◆◆◆

千差万別の使い勝手の端末が世に放たれるということは実のところ、そのOSがAndroidである意味がない、という結果にさえつながりかねないのです。

事実、一度端末を買ったら最低2年間はOSのバージョンアップが保証されている(公式的にではなく実質的に、ですが)iPhoneやiPod touchと違って、Android端末は、無数にある端末のうち、どの端末にどのバージョンのOSをインストールできるのかがわかりませんし、バージョンアップするとメーカーが独自に搭載した機能が使えなくなる場合もあります。

加えて悪いことに、どのアプリケーションが動作するのかが、動かしてみるまでわかりません。

ここまでの分断化が進むと、Android端末は、"Android"というブランドではなくて、各メーカーのあるブランドでしかないことになりますから、全体としてのエコシステムの成立が絶望的になります。

この問題は、実際にAndroidマーケット経由では有料アプリが思ったように売れないという現象をつくりだしており、iPhoneアプリで億万長者になった人はいても、Android長者はいないという事実となって現れています。

エコシステムが構築されていないということは、新たなOSの出現に対する耐性が、まるでない、ということです。

◆◆◆

わたしが期待しているのは、今回のMotorolaの買収によって、そこからAndroidの実質的なフラグシップモデルがリリースされることによって、そのブランド全体の質が底上げされる可能性が出てきた、ということです。

わたしは長い間Apple製品ばかりを使っていますから、周囲からは根っからのApple信者ということになっているようですが、惰性でモノを買うこともありませんし、ひとつのブランドに執着があったことはありません。
Appleが好きなのではなくて、Appleのやっていることが好きなのです。

道具は好きなので四六時中なにかを触っていますし、あたらしいものが出てきたら興味を持ってさわりにゆきます。

道具として優れているのならいつでもどんな製品にでも乗り換える準備がありますが、少なくともコンピュータの中では、これまでそんなものにめぐり合ったことがなかっただけのことです。


◆◆◆

ある自称Androidファンの記者はこう書いています。

“Androidにはすばらしいセールスポイントが数々あるが、その中にユーザインタフェイスは絶対にない。” 
ユーザインタフェイスの天才がPalmを去ってGoogle Androidチームに合流–これでやっとUIも良くなるか

わたしも、そう思います。

仕事で手渡されたAndroid端末を突き返して、スパムが来てもいいので自前のiPhoneを使わせてもらえないか、と毎回言っています。

スマートフォンが流行るのはかまいませんが、周囲の人たちが、訳のわからない使い勝手の道具のせいで苦しんでいるのを見るのは、表現論に片足を突っ込んでいる人間としては、見過ごすことはできません。

Googleの、万人のための舵取りに、期待します。


(了)

2011/08/25

GoogleにMotorolaが必要だと思うわけ (1)

※この記事は、本来ならば「道具の本質の周辺:HPのWebOS機器開発中止の報によせて」の前に公開されておいたほうがよかったかもしれません。
なにしろ、8月に入ってからのエレクトロニクス業界のニュースは足が早すぎで、昨日のニュースについて書いていたら今日もあたらしいニュースが入ってきた、という具合です。
そうはいっても、当Blogはあたらしい話題はやっぱりまるきり扱わないので、いつもどおりに運営いたします。

◆◆◆

Googleはもともと検索サービスからそのビジネスをはじめた会社ですが、


それまでにない発想の検索エンジンでユーザーの支持を獲得したあと、今日まで拡大路線を進めてきました。

みなさんの眼に触れる機会が多いサービスを挙げてみると、
動画を閲覧できる"Google Video"と"Youtube"、
論文検索"Google Scholar"、
文書共有"Google Docs"、
世界中の図書館の本をスキャンして公開する"Google Books"、
地図サービスである"Google Earth"、"Google Map"、
スマートフォン向けOS"Android"などです。

◆◆◆

ここまで手広いサービスをするには、内製のものだけではなくて当然に買収もそれなりの数にのぼります(Google買収企業 一覧、まとめ - NAVER まとめ)から、そこだけを見ていると、一時期ビジネスの世界で典型的な失敗例として槍玉に挙げられていた「多角化路線」や、その結果生まれる互いに関連性の薄い事業分野の複合体である「コングロマリット」になってしまうのではないか、という心配もありそうです。

ただ事業分野の数を数えてみれば、確かに「こんなことまでやってるの?」という手の広さなのですが、いちばんの問題は、その目指すところがぼけていないかどうか、というところなのですから、多方に手を広げてもなお、強い目的意識性が明確に存在しているのかを調べてみなければなりません。

◆◆◆

Googleの場合には、「世界中の情報を一箇所に集め、保存すること」と、それにも増して「それらをうまく解析するやり方」を常に考えているように見えますし、一般のユーザーに対してそれを無償で提供することにこだわってもいるようですから、わたしにとってはやはり、規模は大きくとも目的意識の強い、信頼に足る企業体だと映ります。

とくに研究者にとっては、必要な情報のありかはわかっても、そこがすでに第三者の利権によって押さえられていたりすると、必要な情報が手に入らなかったり満足に引用できなかったりします。
稀覯書の類を囲い込んで人の手に渡さないように計らう者もいますし、著作権を延長させようとする権利者団体もいますし、国立系図書館と私学図書館とのしがらみもまだ残っています。

それらはたしかに、心ない使い手によって文化遺産が傷つけられては困るから保護しているのだというしごくもっともな理由もありますが、悪意のない研究者からすると、度を越えたしがらみのようにも映ります。
そこをGoogleは、必要な情報を万人の手に、という目指すところを貫き通すために個人の力ではとても成し得ない交渉力を発揮してくれるのですから、これほど心強い味方はありません。

一般の人の場合には、Google Mapの撮影車が私有地に入ってしまったり、プライバシーを侵害したなどの問題が取り上げられたこともありますが、今年の春前に日本を襲った東北大地震の際、Googleが各地の避難所の名簿を撮影し、ユーザーが文書化する土台を作ってくれたおかげで、探しびとがいる場合にはすぐに検索するということができたのでした。

◆◆◆

そのほかにも、
検索エンジンから得られた日本語の解析データを元に、日本語変換ソフトを配布しているのも、
青い惑星「地球」を俯瞰する立場から、自分が今いる住所にまで数秒の内にズームアップできるというのも、
スマートフォンを使えば外出先でも、現在地から行きたい場所へとマーカーを引いてくれるのも、
すべてGoogleのサービスを使って実現していることです。

しかも、これらすべてが無償で行われているのです。

◆◆◆

Googleは、持ち前の自由を尊重するという思想でもって、もはや弊害が多く目につくようになってきた古い制度というものを改善しようとし、場合によっては打ち砕こうとしてきました。

こういったことを捉えようとしたときによく使われる言葉が、事業分野は重ならないけれども相乗効果をもたらすべく行われる「水平的拡大」という手法です。
検索サービスの広告収入を起点にして、旧態依然とした体制があると見るや手を伸ばしてきたGoogleは、まさにそのやり方を体現しているように見えます。

ところが、というところが、今回の表題に挙げておいたニュースが、驚かれた理由です。


(2につづく)

スティーブ・ジョブズがApple社CEOを辞任

来る時が来たというべきでしょうか、彼らしい簡潔な文面と去り際です。


Apple - Press Info - Letter from Steve Jobs

◆◆◆

【日本語訳】


 スティーブ・ジョブズからの書状


Apple取締役会とAppleコミュニティのみなさまへ


私は以前から、いつも言ってきました。
AppleのCEOとして自らの責務と期待にもはや応えられないとなったときには、まずはじめにあなたたちに伝えるでしょうと。
残念ながら、その日はやってきました。

私はここに、AppleのCEOを辞任します。
もし取締役会が許すのであれば、私は会長として、取締役として、そしてまたAppleのひとりの従業員として留まりたいと思っています。

私の後継者については、私たちの継承計画のとおりに、ティム・クックをAppleのCEOとして指名することを強く勧めます。

私は、Appleの最も輝かしく、また革新的な時代がこの先にあると信じています。
そして私は、新たな役割を果たすなかで、その成功に貢献し、それを見届けられることを楽しみにしているのです。

私はAppleという会社において、生涯の友と出会うことができました。
多年にわたりともに働けたことを、あなた方みなに感謝します。

スティーブ


◆◆◆


【原文】


Letter from Steve Jobs

To the Apple Board of Directors and the Apple Community:

I have always said if there ever came a day when I could no longer meet my duties and expectations as Apple’s CEO, I would be the first to let you know. Unfortunately, that day has come.

I hereby resign as CEO of Apple. I would like to serve, if the Board sees fit, as Chairman of the Board, director and Apple employee.

As far as my successor goes, I strongly recommend that we execute our succession plan and name Tim Cook as CEO of Apple.

I believe Apple’s brightest and most innovative days are ahead of it. And I look forward to watching and contributing to its success in a new role. 

I have made some of the best friends of my life at Apple, and I thank you all for the many years of being able to work alongside you.

Steve 

2011/08/24

iPhone 4のスライドキーボード

休み中のわたしの課題は、


空き時間にいかに考えをまとめるか、ということでした。

遊びにきていた親戚の子どもにも、
「休みくらいは、考えたり鍛えたりするのを、やめなさいね!」
と言われて、なんだか食事中に新聞を読むのを子どもにたしなめられるビジネスマンとキャリアウーマンの気持ちがちょっとわかりました。

でも、いつもの習慣を無理に止めるとココロのほうの平穏が、保てないのですね!

◆◆◆

そうは言っても、遊びは遊びでメリハリはつけてはいるので、出先にまでMacBook Airを持って行ったりはしません。

ただ遊び中にも、常々考えている疑問が「ああ、そういうことだったのか」と氷解することはあり、そんなときにはメモを取っておかないとあとで忘れてしまって、喪失感ばかりが色濃く残るせいで二重に悔しかったりもするわけです。

なので、中国からこれを取り寄せました。

iPhone 4用の、外付けキーボード。

バッテリーが搭載されていて、本体とはBluetoothという無線規格でつながっています。

◆◆◆

せっかく薄型のiPhoneがこれを着けているとけっこう分厚くなってしまいますが、それでも初代iPodよりは薄いのでした。

ですから、つけたまま持ち歩けないこともありません。

iPhoneのほうが奥行きがあるせいで分厚く見えますが、
実際には初代iPodのほうが1mmほど分厚いです。
数の出ている商品は、本体がシンプルな構成でも、こういった周辺機器が出揃うために、物理的な機能の不備はユーザーが自分自身の手で補うことができるようになっています。

これは、従来のフィーチャーフォンでは考えられなかったことで、圧倒的な数量と、iPhoneのシンプルさが、サードパーティーを巻き込んだエコシステムを構築していることがよくわかる例です。

日本の市場も、すっかりそんな影響を受けないわけにはいかなくなりました。

◆◆◆

ところで、なぜに中国から取り寄せたのかといえば、これが日本に入ってくると、6,000〜10,000円弱という値がついているからなのですね。

これはちょっと高いなあ、それにわたしのiPhoneはホワイトなのに黒いキーボードしかないし、と思っていたところ、中国の通販サイトを見れば、ホワイトモデルが送料無料の3,000円ちょっとで売られているのを見つけたということでした。


実際に届いて開けてみると、そのスライドの精巧さ、キーのむらのなさ、これほどの薄型のなかに数週間持つバッテリーを搭載するなど、モノとしての完成度には驚かされます。

これが3,000円!日本の企業もこりゃあ大変だ、と心底感じ入りました。

この商品はいわゆるノーブランド品で、通常ならばこれを、よりユーザーに近い企業が自社ブランドをつけて市場に出すわけですが、ユーザーにとってはどちらにせよ知らないブランドのロゴを印刷されるくらいなら、無地のままでさらに安いほうがいいに決まっています。

背面があまりに寂しいので、わたしは昔のリンゴマークを勝手につけました。
余計なロゴは、No Thanksです。


◆◆◆

これと同等のキーボードは、すでに市場にたくさんの種類が出まわっています。

Amazon.co.jpで"iphone bluetooth keyboard slide"などで検索すると、無数のヒットがあることからも、それが複数の流通経路で、複数のブランドを付けて売られていることがわかります。

こういうときには、ある会社が設計したものを中国の企業に製造を委託したあとで、中国企業が横流しして独自で販売し始めることもありますから、このキーボードの設計そのものをどこが担っていたのかは、著作権としては大きな問題です。

ところが、これまでは委託されて製造だけを担っていたところが、しだいに力をつけて、設計までも視野に入れるようになると、それまで設計をして自社ブランドをつけてものを売っていたところが、偉そうな顔をできなくなってきます。

わたしはこの商品を手にとったときに改めて、日本企業は、すでにずいぶんと差を縮められているのだなと実感しました。

◆◆◆

こういった話は周辺機器に限られることはなく、発売から1年強のiPhone 4も、すでに精巧な偽物が出まわっています。

その中身はiOSではなくてAndroidが搭載されていますが、少なくとも外見はかなり精巧に真似をされていますから、デザインに劣ったAndroid端末を使うくらいなら、たとえ偽物であってもiPhoneの外装を採用した端末を使うほうがよいというユーザーがいても、少しも不思議ではありません。

設計者の努力をきちんと評価するためにも、眼には見えないところの著作権を認め、それを守るための整備は正しく行われなければなりませんけれども、それは「できるけれどやらない」ということを強制するための国際的な取決めなのであって、「できないからやれない」というのではないということは、やはり真正面から受け止める必要があります。

戦後の日本が、他国の製品を模倣した「安かろう悪かろう」から出発して、世界でも有数の品質を備えるまでに半世紀もかからなかったことを考えれば、「明日は我が身か」と、自分たちの過去の姿を鏡として、次になにをすべきかを考えてゆかねばなりません。

2011/08/23

お盆休み中の革細工

お盆を過ぎてから、夜間はずいぶん涼しくなりました。



読者のみなさんは体調など壊されていないでしょうか。

◆◆◆

さてお盆休み中に、環境が許さなかったりBlogシステムの不具合などで公開できなかった革細工を公開しておきます。

・タバコ+ライターケース
フリップを長めにとってあるのは、コンチョをつけて
デザインを整えてから本人に渡そうと思っているから。
友人から頼まれたので、要望のとおりにいちおうの形を作ってみました。

わたしはタバコを吸ったことがないので、空箱はもらっていたけれどもライターが手持ちになくて困りました。(キャンプの時にもメタルマッチかプリムスを持っていくのでライターには用がないのですね)

道具を作るときにいちばんいいのは、やはりそれが達成する作業について熟知していることなのですが、それがかなわないときには、使い手の意見をうまく聞き出して、自分がそれを愛用しているつもりで取り組まねばなりません。

いつもはタバコについて否定的なわたしがそういう態度で臨むものですから、依頼主は喜んでいたかもしれません。

しかしタバコがひとつの道具であることと、タバコが有害であることは相対的に独立していますから、学者としてはドライに区別しておかねばならないところですね。

ともあれ試しに作ってみたら、しっくりくるものができたので、これをもう少し加工すれば完成です。

理論である型紙どおりにケースを作ったときに、実践的にもぴったりのものができるということからすると、箱型のもののケースを作るときの技術はこれで完成したといっても良さそうです。

◆◆◆

・名刺ケース
おお、こう見るとちゃんと顔っぽいね!
こちらも友人からの依頼。

名刺ケースについては、すでに何度も作ってきているので型紙は出来上がっていますが、最近は同じものを作ると眠くなってしまうので、「なにかモチーフを用意してね」と言っておきます。

そうすると、型紙をアレンジしなければならない必要に迫られますから、創意工夫ができて睡魔に襲われずにすむわけです。

わたしはものづくりの時には、依頼者にも、ものを作ることの苦しみと、完成した時の楽しさを感じてほしいと常々考えていますから、ある意味で、彼女や彼らにも努力を要請します。

作り手を信じて任せてもらえるのと、丸投げしてほったらかしにされるのとは、雲泥の差があると感じます。
仮にも道具の持ち主になるのであるのなら、親としての自覚を欠くべきではないのではないでしょうか。

今回は、モチーフについてうまくやりとりできたので、楽しく作れました。
名刺ケースはビジネスの場で使うものですが、今回のモチーフにしたものは仮想のキャラクターだったので、そこには矛盾があることになります。
その矛盾を統一するところにこそ、ものづくりの楽しさがあるわけですね。

◆◆◆

・Apple Remoteケース
これ、裸だとよく失くすんだよねえ…。
たぶん、ベッドの横の隙間に落ちてる。
わたしが発表で使っているのは旧モデルのApple Remoteですが、すっぴんだとあまりにもなプラスチック丸出しでどうにも好きになれません。

そういうわけで、いっちょ良いケースをつくろうと思っていましたが、操作部をどう処理するかを解決できずにいました。
ケースの開口部を方向キーギリギリに設定すると、革の厚みのせいでキーが押しにくくなってしまうのですね。

大きめに開けると格好悪いのではないかと思っていたので作るのを躊躇していましたが、実際に作ってみるとそれほど悪くなく、杞憂に終わりました。

Apple製品はミニマルなデザインなので、手探りではどちらが前で後ろなのか、上か下なのかがわかりにくかったりするのですけども、これで問題が解消でき、定位置にぶら下げておけばベッドサイドに転がって失くしたりすることもありません。

ところで、最近はプレゼンテーションやDVDの視聴をしていないせいか、作り終わったあとに電池切れに気づきました。

この際だから、新モデルも買ってケースの型紙を作りましょうか。
なんだかこのごろ、ケースを作るために製品を手に入れているような気がしないでもありませんね。

通常の更新に戻ります

お待たせしてすみませんでした。


さきほど記事を公開したらうまくいったようなので、お盆休みも一息ついたところでBloggerの不具合も解消されたことになり、ようやくまともに更新することができそうです。

忙殺されるまで忘れていましたが、わたしがこのBlogをはじめたきっかけというのは、学生さんたちや知人たちがわざわざ自宅へ足を運んでくれることにたいして、一人ひとりと相談するための満足な時間がとれないけれどもなんとかしたい、ということにもあったのでした。

誰かひとりに答えたことを少し一般化して載せておくことで、ほかのみなさんもそれを参照できれば、わたしが個別に相談にのる時間を、研究を前進させるために、ひいては大衆のために使えるということだったのです。

◆◆◆

それがお盆休みということもあって断りきれず、実際に知人一人ひとりと話してみたら、やはり書面やメールで近況をやりとりすることよりも、ずっとその人の進んできた道がうかがい知れるなあという感想と同時に、時間の使い方だけはうまくなってゆかねばならないとも思わされました。


それにしても、3ヶ月部屋にこもって、買い物の仕方も忘れるくらいに分厚い本とにらめっこしていたかと思えば、2週間でいつもの付き合いとは別の数十人ほどの人とも会っていることがあるのですから極端なものです。

ほんとにたくさんの人と会い、充実していた反面、とても疲れました。
疲れ方の中には、いつもの自分の生活と、他の人のそれが食い違っていることも手伝っており、暴飲暴食に夜更かし、決まった時間の鍛錬もなしで、帰ってきたらすぐにクーラーなどと来ては、毎日を意識的に同じ生活に整えてゆきたいわたしのような人間にはとてもついていけません。

もっとも友人たちは、それがどうしても必要な仕事をしているのですから、非難しているわけでは当然ないのですが、わたしにはやはり、サラリーマンが平気な顔をしてバリバリこなしているような営業の仕事などはとてもできそうにありません。
その代わりに、人に合わせることのエネルギーを発揮しなくて良いぶんは、しっかりとうまく成果として残してゆかねばならないことになります。

◆◆◆

そういうわけでこれから、なにかのきっかけで筆をとれなくなるまでは、書きかけで清書しきれていない記事を片っ端から片付けてゆこうと思っております。
記事の公開が前後することも予想されますから、前後関係が怪しいところも出てくるかと思いますが、どうぞご理解ください。


またここで公開されている文章の書籍化を楽しみにしてくださる読者の方もおられて、とてもありがたく思っているのですが、ここでの文章はここだけのものであることを、前もってお断りさせてください。

ここでは、身近なところで出合ったり寄せられたりした疑問を、自分の研究の方法を使いながら考えてゆくという方針なので、もし書籍化するとなったら、構造はそのままでも表現が大幅に書き直されることになりますし、根拠をより詳細に見ながら論じてゆくことになりますから、見た目にはまったく別物になると思います。

ここでは、曖昧なことが明確になる前に思い切って書いてしまっていることもあり、これを固定化された表現で残すことは、あまりよくない場合もありますからね。

もしかしたら、堅苦しくなってつまらなくなるかもしれません。


わたしがここにどれだけの頻度で何を書こうとも、いまのところ直接的には一銭も入ってこないので、生活の糧にはまるきりなっていないという意味では欠点ですが、読者のみなさんにはまったくの無料で、あるていどまとまった内容の事柄をお伝えできているのは嬉しく思っていることです。
世の中に、中身のない言葉ばかりが喧しいメディアだけしかないというのは、過去の文化を継承する義務のある人間存在として、あまりに悲しい事実ですからね。

そういうわけで、ここに公開している記事は、ちゃんとバックアップをとったこともないので、もし大きな不具合かなんかが起きて消えてしまったら、それっきり、ということです。

それにここでは、新しい話題はまるで取り扱わないにもかかわらず、いま1年前の記事を読んでみると、やはり物足りないとも思えますから、あまりしがみつく必要もないのではないかという思いもあります。

過去の蓄積ばかりを誇ることのないように、本質的な前進を心がけてゆきたいものです。

◆◆◆

そういえば、Bloggerのシステムが不具合中に、ブログを別の入口から更新しようとしたら、これまでののべ閲覧者数が表示されていました。

わたしはこういう数字にはあまり興味がないと思っていたのですが、あまりの数字にちょっとびっくりしてしまいました。
こういう時代の日本という国で、こんな文字ばっかりの閻魔帳Blogに、これだけの人たちが見に来てくれるという事実は大きな支えです。

もはやここになにか書かないと一日が終えられないほどに自分の生活に馴染んできたこのBlogですので、大事に続けてゆこうと決意を新たにした次第です。

2011/08/22

道具の本質の周辺:HPのWebOS機器開発中止の報によせて


一般の人たちは、会社の動きを見ます。


Android端末数がiPhoneのそれを抜いたとか、
Windows PhoneのあたらしいOSが出て期待できそうだとか、
そういうことですね。


自分の使っている機械のOSについて、それなりの関心を持っている人にとっては、
iPhoneを使っていればAppleを応援するでしょうし、それ以外のスマートフォンを使っているのならAndroidを悪くは言わないでしょう。
そういうことが理由で、競争する会社を見る側のユーザーのほうでも、その動きに合わせるように対立するような動きがみられることにもなるわけです。

そのときに論拠として挙げられるのは、市場におけるシェアや出荷数といったわかりやすい指標であって、これは指標であるだけに時代と共に移り変わります。
端末が多機能化するときには音楽プレーヤー市場のシェアだけに着目しているわけにはゆかなくなりますし、出荷数がいくら多くてもそれが売れれば売れるほど赤字になっているようなときには、その会社が長期的にはどのような戦略をとっているのかの中でそれを位置づけねば正しい理解はできなくなります。

そんなふうに、ある指標が本質を捉えそこねることが反省されて、別の指標に移り変わったとしても、そこに示されているのは単なる結果でしかないことに、何らの変わりもありません。

◆◆◆

ではその過程にあるのは何かといえば、人の動きです。

Apple社で“iPodの父”と呼ばれたジョン・ルビンシュタインは、Palm社(現・HP社)でWebOSというあたらしいOSを開発しています。
Palm社でインターフェイスのデザインを担当していたマティアス・ドゥアルテは、デザインチームとともにGoogle社に移籍しました。

この変化は、すぐに結果として現象することにはなりませんが、長期的に見ればそこでのものづくりを大きく変えてゆくことになります。

ですから、物事を本質的に把握しようとしたり、業界の動向を読み取りたい人は、人の動きに着目するわけです。


わたしは商学系の大学で学位を取りましたが、それでもどの会社が何をやって儲けたなどという話には、興味があった試しがありません。

商学の研究の場合でも、すでに起こった出来事をいくら分析しても将来は読み取ることができないばかりか、
いきおい余って細かな出来事の探求に身をやつすようにもなると、素人よりも誤った将来を予測しがちであることに加えて、
ひとりのユーザーから見ても、たくさんの人が使っているからという理由で自分の使うものの品質が保障されることにはならないからです。

◆◆◆

さてこれだけ断っておけば、このBlogでは、なにかが売れたかどうかやどこかが数で優っているかではなく、
そのものの本質的な規定において優れているかどうか、という物事の見方をするのだなとわかってもらえると思います。

人間関係についても同じことが言えますが、その人の意見が少数派であることと、それが正しく事実を踏まえているかどうかは相対的に独立しているのが当然なのですから、民主主義だからなんでもかんでも多数決の原理を持ち込めば答えが出るのだという短絡は、教育においても表現においても看過することは、絶対にできません。

そういう観点からすると、わたしはジョン・ルビンシュタインがPalm社に移ってから開発したWebOSを見たときに、ひと目でAppleのiOSに勝るとも劣らない使い勝手を実現していることがわかりました。

2009年に、かつてPDA業界の雄Palm社がそれを発表したときに、角のとれたやさしいインターフェイスやカード型の簡単明瞭なマルチタスク機能を見て、使い勝手の点でAppleを越える存在が現れるとは、ととても驚きました。

PDA市場の衰退と共に日本を撤退していたPalm社を、HP社が買収したときには、これで日本再上陸が叶うかもしれないという望みが持てると同時に、職人気質で経営的な観点に欠けるPalm社を、PCの開発をはじめて10年そこそこで世界最大手に伸し上がったHPなら、きっとうまく扱ってくれるだろうとも思いました。

◆◆◆

ところが、先週8/18のHPの発表です。

速報:HP、PC部門の切り離しを検討。webOSデバイスは終息

心底、がっかりしてしまいました。


続報が出たところで、さらにがっかりしました。

hp のPC部門切り離し、担当幹部も数日前まで知らされず

もはや、言い訳の余地なし。

◆◆◆

これが春先に、WebOSを自社開発のPCに載せてゆくとまで明言していた会社のやることでしょうか。
ひとつの会社が、目指すところを見据えるがゆえに目先の方針を変えることはありえますが、ここまでの言行不一致は信頼を失墜させるには十分です。
事実、同社の株価は現在暴落していますが、発言への信頼を欠いては資本主義を生き残ることはできないのですからやむなき事でしょう。

◆◆◆

インターフェイスに目を向けると、
マティアス・ドゥアルテの移籍で、これから少しは明るい展望が生まれてきたはずのAndroidを除けば、
ユーザーにとっての使い勝手でiOSに比肩しうるのは、いまのところWebOSを除いて他にありません。

現行のAndroidのユーザーインターフェイスは、あちこちで言われているように、一言でいえば"chaos"(混沌)なのであって、わたしからすれば、一般ユーザーに使わせてよいだけの品質を備えていません。

Windows Phoneについては、日本上陸の際に、より深く検討してゆきますが、いまのところ言えるのは「電話機はそもそも人とのコミュニケーションを取るための道具である」という原則論をふまえたところまでは良かったものの、競合と競争するにあたっては、それらが展開する「電子辞書にもなりナビにもなりゲーム機にもなる携帯端末」として使おうとすると、とたんに使い勝手が悪くなるという欠陥を解消する必要があるようです。

◆◆◆

インターフェイスについての議論になると、どんなユーザーでもフィーチャーフォンを使っていることを根拠にあげて、OSの出来・不出来などユーザーにとってさほどの関係はないと短絡する論者がいるようですが、それは人間の側に出来の悪いOSに合わせるだけの柔軟性が備わっていることを、度外れに強調しているにすぎません。

オタクはどれほど使い勝手の悪い携帯電話でも自分なりにカスタマイズして使いますが、一般ユーザーがいくら慣れたといっても、電話機能とメールをやっとできるという範囲より外には出ることができないからこそ、「簡単ケータイ」なるものがロングセラーになるという事実があるわけです。

人間には、決まった操作をルーチン化して、ひとつの技として身につける能力が備わっているために、出来の悪い道具でもそれなりに使いこなせはしますが、そのことが道具の品質がどうだっていいというのであれば、人間が機械にあわせるべきだという、とんでもない機械論だと詰られても仕方がありません。

道具は、それが生産性を上げるためのものである限りは、その作り手は、作り手としての義務でもって、使い勝手への探求を決して止めてはいけないわけです。

いくら代用が利くからといって、鉛筆を箸の代わりに使ったり、カッターナイフで魚を捌くといったことは、特殊な場合でない限り、人に押し付けて良いものではありません。

道具の本質というものはそういうところにあるのであって、物事に本質などないという相対主義者や、本質が先に存在して個別はそこから生ずるという三流観念論者に本質が捉えられないのは、「本質」という文字といくら格闘したところで、具体的な事実の検討なしにそれを規定することなどできるはずもないからです。

◆◆◆

そういう意味でWebOSが示した思想性は、道具の本質をとらえたところにありました。

HP社は、WebOS搭載ハードウェアの開発をやめる代わりに、ソフトウェアとしては存続させてゆく意向を示していますが、これだけの言行不一致をしでかした会社に、うまい舵取りを期待すること自体がナンセンスだと思えてきます。

道具の本質に興味のあるわたしにとっては、同社がPC事業を本社から切り離すといった決定よりも、WebOSの今後のほうが、はるかに気になるところです。

2011/08/18

現在不具合のため、

まともに投稿を行うことができないようです。
ドラフト版でこのメッセージだけ残しておきます。

Blogger公式ヘルプフォーラム
http://www.google.com/support/forum/p/blogger?hl=ja

しかし連休中にやっと時間がとれたというせっかくのタイミングで
不具合が起きるというのは、これだけ毎日お世話になっておきながら、

Googleの悪口(?)を書いた記事をしたためていることがバレたからでしょうか。

次の更新で公開される記事で、Motorolaを買収したことについて触れてあります。

2011/08/15

売れない絵はダメな絵か:「相対的な独立」の問題 (1)


この記事は、先日ある学生さんと話していたときの内容を、


ご本人の「友人にも聞かせたい」という要望に応えるために思い出しながら書いてみたものです。


最終的にはいつものところに着地したのではないかと思いますが、あれやこれやとお話ししたことをこうやっていくつかの記事にわけて掲載することになると、「この話はいったいどこへ向かってゆくのだ??」となりそうなので、この一連の記事の大きなテーマを述べておくことにします。


わたしが今回問題視しているのは、切り分けて考えたり論じなければならないことをごっちゃにした挙句、非常に極端な結論を出してくるという主張の仕方です。
またそれが社会の中で、上からの強力と相まって人を従わせる武器になっていることです。


空気中には水分が含まれているから、晴れも雨も大差ない、といったような冗談のような主張を本気で述べる人間がいるという事実について、その表現そのものの裏側にどのような論理が含まれているかを見ることができなければ、違和感は覚えるもののうまく反論できない、ということはこれまでの記事でも見てきたとおりです。


今回の記事も、大きく見れば、それと同じように、「真理のように思われることでもそれを度外れに押し広げるのならば、誤謬に転化する」という<対立物の相互浸透>を論じていくわけですが、そのなかでもとくに、その逸脱が起きる理由というものを探ってゆこうと思います。


その過程で、ものごとの間にはつながっている部分と共につながっていない部分があるのだという意味で、「相対的な独立」ということばが出てきます。


たとえば、あなたの絵が展覧会に出されるとなったとき、構想も製作も誰よりも熱心に時間をかけて取り組んだものの、評価が芳しくなかったとしましょう。(学習の進んでいる方へ:これは一般的な喩えなので、「表現」そのものの特殊性は考えないでくださいね)
そのときに最高値のついた絵を出展した画家が、「ついた値段が実力の差を表しているね」と言ったのだとしたら、悔しい感情は堪えるとしても、そんなことはない、そんな考えは間違っているのだと、まっとうな形で反論できるでしょうか。
まっとうな形での反駁というのは、その場で掴みかかって発言を訂正させたり、上からの圧力を根回ししたりといったことではありませんし、「その嫌味は人間としての差を表すことになるよ」といった売り言葉に買い言葉でもなく、「どこからどこまでは正しいが、それから先は言い過ぎですよ」という論理的な指摘によってなされるものです。


行き過ぎた意見が世にはびこるというのは、もちろんそれを発した側に主だった責任があるのですが、それをおかしいとは思いながらも指摘する姿勢がなかったり、それを指摘するための論理性がなかったりといった受け取り手にも、一部の責任があるわけです。


上で述べたように、この記事での議論は必ずしも真っ直ぐに進むわけではありませんが、大きな観点から言えば、そういったことを準備してもらうために書かれたものです。


では、はじめましょうか。


◆◆◆

きょうび就職活動をしている学生さんには、こんなことばが投げかけられているらしい。

「社会がお前に合わせてくれると思うのは勘違いだ、お前が社会に合わせてゆくのが世の中というものだ」。

表現そのものはやや違っていたけれども、要点を言えばこんなふうである。


ちょっと前、ある学生さんと会ったときにこの話が出たので、思わず「あほらし」と言ったら、手を握られた。

「あなたも、そう思いますか!」

◆◆◆

どうやらこの話をしたときに、そんな反応をする人間がほかにいなかったらしい。

これはどこぞの人物のことばを、就職セミナーの人間が引用して持ちだしてきたときのもののようだが、他の学生たちが「なるほど」と頷いて聞いているのを見ると、そんな意見は極端すぎるのではないかと思える自分のほうがおかしいのかもしれないと思えてきて、非常な温度差を感じたもののようである。

価値観の違う人間は要らない、そういった主張を包み隠さず述べる企業もたしかにある。
ある大企業では、人材を採用するときの評価項目で、能力と価値観を掛け合わせたものを数値化しているが、能力が1以上の正の整数なのに対し、価値観の項目はマイナス、負の整数からはじまるのである。
そうすると、価値観がその企業と異なっている場合には、ポテンシャルが高ければ高いほど、とんでもないマイナス評価になることになる。
こういったことを公言することは、その企業の価値観に共感できない学生にたいして前もって選考に来るべきではないという意思表示にもなっているわけで、そういう意味では企業側の良心であると言えないこともない。

どこでもいいからとにかく職にありつければよい、仕事のやり方も人格も所属する組織に合わせてみせるという場合になら、そういう企業で面接をする前に、会長だかの人生哲学を解いた本でもアタマに叩きこんでおけば、それなりの対策はできるものである。
しかし、自分の目指す道から一歩も踏み外したくないとまでは言わないまでも、人倫に悖ることはしたくない、自分の価値観に合った生き方を探したいという場合には、ほかのやり方を探すしかないということになるし、どこの企業もこんなふうなのだとしたら、事実的に社会の落伍者として扱われかねない。

◆◆◆

話を聞いてみるとこの学生さんは、就職活動をしていても自分にとってこれだという会社にめぐり合うことができず、それなら国外に出るべきか、大学院にでも入るべきか、文芸でもやってつつましく暮らすべきか、といろいろ思い悩んでいたところに、このことばがトドメをさした格好になったようである。

そんなことで気疲れして身体を壊して実家に帰ったら帰ったで、両親が「そんなに頑張って就職活動しているということはさぞかし良い会社に入ってくれるに違いない」といったような期待を寄せているのが辛くて仕方がない、ということであった。

こうやって大雑把に書いてしまうとありきたりの話のようではあるけれども、本人にとっては人生をかけた大きな悩みである。

◆◆◆

人がその人自身の生き方について考えてゆく時に、その人の人格やそのとき置かれた状況を踏まえなければ正しい答えは導くことができないのは当然である。

市民の今日の食料も危ういという時に、ある王女が「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」と言ったというのは事実とは異なるようであるが、このエピソードがそれなりの説得力を持っていることは、当人の置かれている状況を鑑みなければ悩みに応えることはできないということを暗示している。
飽食の時代に生まれた子供たちに、仕事のやりがいなんてどうでもいいからさっさと働けと言うのも、生きる意味など考えずむしゃらに働いてきていざ定年になったら、自分の好きなものなどまるで見つからないことに気付かされたという人間に、自分自身を見つめてこなかったことに責任があるなどと詰っても仕方がないのも、それと同じである。

だからわたしも、学生さんからこのような相談があると、原則論はまるで表に出さないように受け答えするのであるが、学者として根拠のないことをしゃべるわけにはいかないから、その裏側には明確なものの考え方をしっかりと用意することだけは、その名にかけて準備しようとするわけである。

人の生き方はそれぞれだという事実を身近で見ていると、それがいかに複雑であるかを思い知らされるわけだが、だからといってそのことに引きずられて、結局は人はそれぞれ別々の存在だから、「人間としての生き方」などというものも論じようがないのだというのは、早計にすぎる。

現象が複雑であればあるほど、それを考えるための方法を持っておくことが望ましいということは、こういう場合にも言えるわけである。


(2につづく)

2011/08/14

あした更新します

更新が難しいとは書いておきましたが、今週はまるで更新できずですみません。

毎日同じペースで論文を書きためて、ここの記事も書いてはいるのですが、
読者のみなさんに理解していただけるには最後の仕上げがいちばん大事なので、
出先での作業だけではなくて、どうしても落ち着ける場所と時間が必要です。

あしたは少しまとまった時間がとれそうなので、
明日の夜21:00ごろにはあたらしい記事が公開されていると思います。

2011/08/06

本日は、

更新できる環境におりませんので、明日まとめて記事を公開します。

今週末と来週一週間は、更新が難しいことが多くなると思います。
楽しみにしてくれているみなさんには前もってお詫びしておきます。

2011/08/05

どうでもいい雑記:Lionにおけるホームとは何か (2)

(1のつづき)


前回の記事では、「新しい世代のPC」では、いわゆる「OSの顔」というものがどのような形になるのかと問いかけるところまで話を進めてきました。

Appleが先月にリリースしたLionでは、その答えは明確に提示されていませんが、このままiPadに倣ってユーザーの使い勝手を高めることを目指すとするなら、どんなに混乱したときにでもいつでも帰ることの出来る場所、つまり「ホーム」を「新しいOSの顔」として設定するのが自然な流れであるということになりそうです。

◆◆◆

これが、従来のOS Xにおける、「古いOSの顔」のありかたでした。(右側)


iPadのホームスクリーン(左側)と比べてみると、非常に似通ったもののようにも見えますが、その本質はまるで異なっています。

iPadのホームスクリーンに並んでいるのはすべてアプリケーションのアイコンであり、たとえばメールをチェックしたい、メモを取りたいといった目的に応じてそれぞれのアプリケーションのアイコンを選択すれば、それを起動することができます。
アプリケーションを開けば、前回の作業内容がそのまま出てきますから、ユーザーはファイルがどこに保存されているかなどは考える必要がありません。

ところが、Mac OS Xの場合には、アプリケーションのアイコンだけではなく、それに混じるようにしてファイル(フォルダも含む)のアイコンが並んでいます。
数から言えば、アプリケーションのアイコンよりも圧倒的にファイルのほうが多く、デスクトップの働きは実質的にファイルブラウザであることからも、古い世代のPCというのは、「ファイル」概念ありきの設計思想であることが明らかなのです。

◆◆◆

前回述べてきたように、新しい世代のPCでは、ファイルを保存し、拡張子をつけ、関連付けを気にするといった「ファイルの管理」という、本来の観点から言えばユーザーの負担となっていた作業が必要なくなってゆきます。

そういうわけで、従来のPCよりも圧倒的に多くのユーザーに受け入れられたiPad(iOS)から学んだ新しいMac OS Xは、最新バージョンのLionで、形の上ではほぼiOSと同等の仕組みを用意しました。
Lionの"Launchpad"
見た目には、iOSのホームスクリーンとほとんど同じであることがわかるでしょう。

この画面にはファイルという概念がほとんど登場しておらず、おもにアプリケーションランチャーとして機能します。

この工夫によって、たしかに見た目の上ではiOSとほぼ同等となったLionですが、問題は、これが本質的な意味で、iOSでいう「ホーム」と呼べるものなのかどうか、ということなのです。

◆◆◆

答えは残念ながら、否です。

どれだけ迷ったときにも帰ってこれるという意味でユーザーに安心感をもたらすものでなければ、ホームとは呼べないのですが、LionのLaunchpadはそれを満たしてはいないからです。

このアプリケーションランチャーを起動する方法は、トラックパッドを3本の指でぎゅっとつまむ(ピンチイン)か、"Launchpad"アプリケーションアイコンを選択する、というやり方でしかないのです。
後者については、アプリケーションランチャーを起動するためにアプリケーションアイコンを選択しなければならないというのは、なんとも皮肉な話です。

◆◆◆

実は上に掲載した画像は、開発途中のLionのもので、Appleの思惑としては、Launchpadをこそ「新しいOSの顔」にしたい、という思いがあったのかもしれませんが、実際にリリースされたLionでは、Launchpadは別途のアプリケーションとして搭載されました。

開発中のものと比べると、
最下段左から2つめに"Launchpad"のアイコンが追加されているのがわかる。
このことは、iOSと同様にホームスクリーンになりえたかもしれないLaunchpadを、単なるアプリケーションランチャーとして扱うことを意味していました。

つまり、AppleはLionでファイルの概念から離れることを目指しておきながらもなお、ファイルブラウザである"Finder"がOSの顔であって、それをまず起動させた上でLaunchpadを起動し、そのあとしかるべきアプリケーションを選択するという形に落ち着けざるを得なかったのです。

◆◆◆

ですから表題の問い「Lionにおけるホームとは何か」の答えは、その思想性にそぐわず、以前として"Finder"なのだ、ということになりました。

もともと熱心なユーザーが多く、相対的なシェアが低いAppleは、そのフットワークの軽さを生かして非常に抜本的な改善を試みることがあるのですが、同社をもってしても、あまりの大幅な変更はユーザーに受け入れられない可能性が高いと考えたのでしょう。

たしかに道具というものは、ユーザーの使い勝手を考えてこその合理性を持ちうるものなので、あまりに性急な方針の変更はそれを損ないます。
そのために、新しい提案をしながらもユーザーがそれに慣れるという、ひとつの浸透過程を踏まねばなりませんから、その決定もやむを得ないところではあるのです。

◆◆◆

ところがそのことは認めた上でも、方針の不徹底は、ユーザーにとっての看過できない混乱をもたらす種を蒔いてしまった、という事実があります。

そう言うのは、Launchpadの新設によって、ユーザーがアプリケーションを起動しようとなったときには、なんと4つの起動方法が用意されることになってしまったからです。

それはまず、従来からのアプリケーションランチャーであるDock、
Dockに登録されたアプリケーションアイコン、
Finderウィンドウに表示されたアプリケーションアイコン、
そして、新たに追加されたLaunchpadアプリケーションです。

一体何回アプリ、アプリと繰り返すのか、いいかげんにしろ、と言いたい読者のみなさんの気持ちもよくわかります。わたしも整理して書いてみて、びっくりしてしまいました。

これを、使用頻度別に使い分けることのできるベテランユーザーならともかく、本来ならば使い勝手の向上のメリットを直接に受けるはずであった新規ユーザーにまで、難しいイメージを与えてしまう危険性が、とても高くなってしまいました。

◆◆◆

PCのあり方そのものを新しい時代に向けて作りなおすという大事業にとりかかったAppleは、ファイルの概念を払拭しようと取り組んだまではよかったものの、やはり従来のPC的な使い勝手を直ちに闇に葬り去ることはできなかったとみえて、従来からのものと、あるべき時代のちゃんぽんの形を、とりあえず採用することになりました。

先ほど見たように、いまのところアプリケーションを立ち上げるにあたっては、大まかに言っても4つの経路があるわけですが、これを一本化することに成功した暁には、「新しいOSの顔」というものも見えてくるでしょう。

そのことをとおしてファイルの概念が薄まり、ユーザーが目的に応じたアプリケーションを立ち上げることから作業を始めるスタイルが定着するようになると、「古いOSの顔」であった"Finder"にとって代わり、"Home"といった意味合いの「新しい顔」が用意されることになるかもしれません。

今回はMacを中心に紹介してきましたが、デスクトップにたくさんのウィンドウを開いて作業するというスタイルを名前でも示している"Windows"もOSのひとつです。
この名前も、ブランドとしては続いてゆくでしょうが、「ポストPC」の時代では、名前の由来そのものは、しだいに忘れ去られるようになってゆくかもしれません。


(了)

2011/08/04

「あなたらしくない」をどう理解するか (3):Appleにみる「らしさ」

(2のつづき)


前回では、Apple社の各世代の商品を形の上で比べてみたあと、その創作過程を遡るように考えてみて、同社が製品の使い手に対して、どのような配慮を行ったか、または行えなかったかを見てきました。

もっとも現代は消費社会であって、開発元はたとえ機能的にはほとんど違いがなくても、「毎年新モデルを発表しなければならない」という使命が課せられているわけであって、開発元が革新的な冒険をしようとすればするほど、その裏返しとして前のほうが良かった、という声も出がちであるという事実も指摘しておくべきかもしれません。

そのときには開発元は、内容はともかく見た目を変えることに寄りかかって新規性を作りだそうとする傾向が避けられないものとなりますから、ユーザーの側でも、ただ新しいからとか、ただ変わったからだとかで飛びつくのではなく、「その変わり方」が良い方向性にあるか、悪い方向性にあるかと、それを実際に手に入れたときに自分のライフスタイルに合っているかと考えてみれなければなりません。

◆◆◆

ただ、もしこのままApple社が、デザイン性を優先させるあまりに使い勝手を二の次に考えはじめるとすると、その「Appleらしさ」という表象はまた別のものへと移り変わってゆくわけですから、「らしさ」というものは、その意味では流動的です。

表象のこの性質は対象の性質に由来し、「すべてのものはたえず運動を続けている」ということから本質的に規定されているのですが、だからといって、Appleらしさの把握は人によっても違うし、個人の中でも時期によって違うから、本質などはじめからありはしないのだ、とかいう相対主義が正しくなることはありえません。

いくらゆく川の流れが絶えることのないものであっても、川が川であることに変わりはありません。
いくら人の細胞が数ヶ月で入れ替わるとはいっても、その人がその人であることにはなんの変わりもありません。

だからこそ、それを川であり池でも海でもないということには意味があり、その人があの人とは違うと言うのであって、学問的に整理すれば、概念は具体的なものを抽象してはいますが、その中に個別を含むという意味で「止揚」していると捉えるのが正しいのです。

「あなたらしさ」というものも、川の流れと同じで、そのものでありながらそうではなくなってきつつあるというように、変わらないものと変わってゆくものとの統一においてはじめて正しく理解できるものですから、あれかこれかという結論を出しそうになったときには、ちょっと立ち止まって弁証法的に考えるようにしてください。

◆◆◆

もしあなたが新しい服を着て学校に行ったとき、「あなたらしくないね」と言われるのが気になったとしたら、それがどのようなところを見た、どのような「あなたらしさ」と比べたところの感想なのかと、ときには本人にたずねてみることも含めて考えてみるとよいでしょう。

相手の中に「あなたらしさ」が表象として持たれているということからすれば、それなりの期間を友人として過ごしている場合が多いでしょうから。

その内実を調べてみると、
服装を変えたのに中身がそのままだから釣り合いがとれていないということかもしれませんし、
服装を整えて顔つきまで変わったということなのかもしれませんし、
服装を変えたことから新学期は新たな気持ちで過ごそうという志が読み取れたということかもしれません。

いちばん最後のことを指摘されていたというのであれば、自分のことを、その表現だけではなくて思いまでをも汲み取って評してくれているわけですから、これは丁寧にお礼を言っておくのがよさそうです。

◆◆◆

ところで、芸術家が、彼女や彼の「認識」を物質的に模写して「表現」したものを、鑑賞者はそれとは逆向きに、「表現」と向き合うことにより作り手の「認識」を読み取ることをとおして、その人格に感動を覚えるというのが、創作と二次創作の関係であったことを思い出してください。

これは、今回引き合いに出した音楽プレーヤーの作り手と使い手の関係も同じことが言えますし、上のような友人関係のあいだにも同じ構造を見つけることは難しいことではありません。

それぞれの過程の中には相互浸透があり、そのことを長く続けてゆくことによって、量質転化的に対象についての「〜らしさ」という表象が持たれることになってゆきますから、そういった間柄であれば、相手の「表現」を見通して、その裏側に隠された「認識」、つまり大きくは精神のあり方を想像してみる、ということができるようになってきます。

◆◆◆

そういうわけで、道でバッタリ出会った占い師や自己啓発セミナーなんかで、「あなたらしさを大事にしなさい」と言われたところで、その時には気分が良くてもあとで何の根拠もなかったことがわかってきはじめかえって落ち込むというのは、しごく当然なことなのです。

たとえ同じセリフを言われたのだとしても、その相手が気心の知れた友人なのならば、その意味合いは全く変わってきます。
なぜならそこに込められた精神のあり方が、まるで違うからです。

そう考えてみると、「あなたらしくない」と言われるのもなかなか悪いことではない…どころかむしろ、と、思えてきませんか。


(了)

2011/08/03

「あなたらしくない」をどう理解するか (2):Appleにみる「らしさ」

(1のつづき)


前回の記事では、Apple社の音楽プレーヤーの2つのモデルの形を比べてみて、それぞれの使い勝手はどう変わってくるかを考えることにしたのでした。

読者のみなさんも、実際に考えてもらえたでしょうか。

◆◆◆

両者ともに、ほぼ同じと言っていいほどに似通った形でしたから、デザインにさほど関心のない人にとってもその差を見つけるのはさほど難しくはなかったのではないかと思っています。
答えを言うならば、その使い勝手における差というのは、「クリップを衣服に挟むときに、つまむための遊びがあるかどうか」です。

難しく考えすぎてかえってわからなかった(相互浸透)、という人はいても、そんなことは気づきもしなかった、という人は少ないのではないかと思います。

ところが使い手の側から見たときに、見た目には(=現象的には)差があることに気づいても、それがどのような使い勝手の差となって顕れるのかと考えを進めてみることができるかどうかは、それを見る者が、実際にそれを道具として使った時のことをイメージできるかどうか、にかかっています。

作り手側の条件を言うならば、どんな道具や製品でも、それが人間のために作られたものである限りは、どれだけ形状が美しかったり色が鮮やかであったりしても、使い手のことを無視したものであってはいないことになります。

そうであるからには道具の作り手は、その使い手が道具をどのように使うかを考えながら、いわば精神を物質的に模写する形で道具として創り上げてゆきますね。

道具の使い手が、どんなに実用的な道具を使ったときにでも、その道具の素晴らしさに感銘を受けるというのは、そこに作り手の、そういった精神性が見え隠れするからです。

◆◆◆

わたしは実際にG2を使っていたのでなおさら強く感じたのですけれど、G4が発表されたときにその写真を見るやいなや、「これはAppleらしくない」と思ったのでした。

それは、Appleという会社が、使い手のことをとことんまで考えた上でものづくりをしていることを、それまでの十数年というあいだずっと見てきていたので、Appleという会社の考えそうなことが、「Appleらしさ」という表象として把握されていたことに由来しています。

その「Appleらしさ」に照らして新しい製品G4を見たときに「これはらしくない」と感じたことについて、改めて考えてみると、新モデルG4には、旧モデルG2のときにあった指でつまむための遊びがないことに気付かされました。

もしG4を、他の会社が出したのであれば、とくに疑問を持たなかったところですが、これを他ならぬAppleが出したという事実が、わたしを驚かせたわけです。

もしG4を衣服のクリップにつけようとして指でつまもうとすると、リング上になっているボタンを押し込むことになってしまいます。

それぞれ、Apple社が用意した公式ページからの写真。(右はサイズを合わせるために切り取った)
G4では、G2のようなアングルからの写真が採用されなかったのはなぜだろうか?

ユーザーが音楽プレーヤーを衣服に挟んで固定しようとしたときに、思いもかけず音楽が巻き戻ってしまうというのは、使い勝手をとことんまで考える「Appleらしい」仕事からはかけ離れているというわけです。

◆◆◆

誤動作を防ぐロック機能もあるにはあるので、これが致命的な欠陥だということにはなりませんが、小型化を目指したあまりに使い勝手を損なうというのは、あまり良い方向性とは言えないことは確かです。

今回の比較においてはあまり話を出さないけれども、と断っておいた第3世代(G3)は、ここを極端に踏み外したモデルでした。
あまりの小型化を進めて、まるで単なるクリップでしかないようなミニマムな本体デザインを手に入れたG3は、操作ボタンをイヤフォンだけに集約してしまったために、曲を選ぶためにもボタンの押しっぱなしで曲名を聞くなどの操作が必要になるなどという、使い勝手のうえでの著しい後退を示すことになりました。

G3(第3世代 iPod shuffle)

この反省を生かしたところにこそG4がありました。
事実、G4では、G2をベースにしながらもG3の機能を盛り込んだひとつの完成形として本道を担うことになりました。
もっとも、そこにもわたしの指摘したような欠点があることも、今後の発展を予期させる手がかりとなっています。

要すると、G4の直系の前身というのは、G3ではなくてG2ということだったのであり、わたしがG3を飛ばして論じ始めたのも、それが理由となっていたのでした。

◆◆◆

歴史は必ずしも直線上の発展をたどらないということは、製品開発の分野においても、ある新しい発想が、度外れに新し「すぎて」、使い手がついてこられない場合があるために、そういったいわば冒険的な失敗作が、傍流として例外的な扱いになることから引き出してくることができます。

このように、ものごとの発展はジグザグの形をとっていますが、それを歴史的に長い目で見て一つの道として浮かび上がらせることができるのならば、その本道を、表象に置いて捉え得た、ということになるわけです。

長い友達づきあいで掴みとった「あなたらしさ」という表象が、たとえ言葉にするとその意味を失ったり、頭の中にしかなく実体として手に取ることはできなくとも、単なる妄想や勘違いのたぐいではないことは、ここからも根拠付けられるのがわかってもらえるのではないでしょうか。


(3につづく)

2011/08/02

「あなたらしくない」をどう理解するか (1):Appleにみる「らしさ」

イメージを変えるつもりで新しい服を着て学校へ行ったら、


「あなたらしくないね」と言われたことはありませんか。

これが「イメージチェンジしたね」と言われたのなら何も気にならなかったかもしれませんが、「らしくない」と表現されると、その言い方がその日の終りまで気になり布団に潜り込んだ頃になってもまだ気になる、ということがありえます。

気持ちを切り替えるためにわざわざ先週末に買い物に出かけて服を買って、雰囲気を変えてみたのだけど、やっぱりもとのままのほうが良かったのかな?


それとも開き直って、

あの人はそう思ったかもしれないけれど、感じ方なんてものは人それぞれだから、気にする必要なんかないはず。

とでも納得してみればよいでしょうか。

◆◆◆

しかしそうは言っても、「感じ方は人それぞれ」というところにまで相対化してしまうと、「見た目が良い」という印象が人々のなかにあることの存在そのものを否定してしまうことになりますから、当の本人が週末に、「この服にしよう」と決めたことの根拠が揺らぐことになってしまいます。

それが論理的にではないにしろ、なんとなくおかしいな、という感性的な形で頭の隅にある場合には、納得したようでしっくりこない、というもどかしさが残ります。
一刻には自分が根拠としていたものが、自分がそれを踏み外すときにはその誤りを突いてくる、これが、論理というものの恐ろしさです。

真理なるものは存在しないのだ、すべての意味付けは無意味であるといった極端な相対主義や、その果ての虚無主義が誤りであるのは、どんなにそれが間違ったものであろうと、実体としてまたは概念として存在するものはすべて、それなりの合理性を持っている、ということを見落としているからです。

もしあるものに誤りが含まれていたり、時代的にそぐわない部分があるのなら、それが誤った理由と、それが生成されてきた理由とを指摘して、誤りを正してゆくというのが正しい姿勢なのですから、誤りを含んでいるから全部無くしてしまえ、という単純なものごとの見方では、せいぜい頭の固い人たちを騙すことくらいしかできません。

◆◆◆

そうするとわたしたちは、「〜らしくない」という判断を引き出すための「〜らしい」、つまりその人らしさやその物らしさが、目には見えないけれど、人々の感じ方の中に確かに横たわっていることがどういうことなのか、と問うてゆかねばなりません。

服飾を例にとると話がややこしくなりますから、いまわたしが書いている原稿の中で、関係のありそうなものを取り上げていっしょに考えてゆきましょう。

以前に、米Apple社は論理力がある、と述べたことがありますが、ほかでもない彼らが、どのようにして考えているかを追ってみます。

この音楽プレーヤーの写真を見てください。


左が旧モデル、右が新モデルです。

第2世代(以下ではG2)と第4世代(G4)と書いたとおり、実は真ん中に第3世代(G3)がありはしたのですが、すくなくない欠点のあったモデルですから、論旨を明確にするために直接比較することはここではしていません。

とはいえ、G3を飛ばしたのはお前の主張を押し通したいがための恣意的な操作ではないかという批判にもお答えするために、あとでそのことにも触れることにしましょう。

◆◆◆

さて新旧モデルは、その内部的なソフトウェアや目には見えにくい電気的な仕組みも改良が加えられてはいるのですが、まず形状の面から比べてみてください。わかることがありませんか?

そのどちらもが、服の裾やズボンのポケットに挟むためのクリップがついていますね。
そうすると大まかに言えば、どちらも目指すところはそれほど変わりがありません。

ところが、わたしは新しいモデルを一目見たときに、「あれっ、これはAppleらしくないな」と思ったのです。

あなたがそれを実際に使ってみたときに、どのような違いがあるのかをイメージしてみてください。
それぞれに、どのような使い勝手の違いがあるでしょうか。


(2につづく)

2011/08/01

どうでもいい雑記:Lionにおけるホームとは何か (1)

腕が上がりません。


ところが日頃の生活を振り返ると、心当たりがありすぎてどれがいけないのかを特定するのが難しいのです。

実のところ、毎日同じトレーニングをするよりも、少しは中休みをとったほうが身体的に都合がよく効率が良い場合もあるのですが、わかっていてもなかなかやれないのです。

仮にも後進に正しいことを伝えてゆかねばならない学者を自認するならば、借り物の理論やらを横滑りして偉そうにふんぞり返るという姿勢では、文字通りの名折れというわけで、もし「中休みをとったほうが良い」と結論づける場合にも、自分の身体で本当に効率が悪いことを試してみて、それが確かなのだと事実的にも理論的にも裏付けがとれたのでなければ、誰にも伝えることをしてはいけないからです。

そういうわけで、ある程度は失敗するだろうなと予想が立てられている場合にも、それが「なぜ失敗するのか」が解明されていないときには、実際にやってみることと同時につっこんで考えてゆくという姿勢が欠かせないことになるわけですね。

◆◆◆

そんなことが理由で、文字を書いたりキーボードを打つのが難しいものですから、込み入った構造を説明しなくても済むようなお題を選ぶことにします。

わざわざ表明しなくとも、公開する記事は、そのときどきの書き手の身体的・精神的・社会的な状況からの規定をまぬがれませんから、頭痛がひどい時には難しい記事の執筆を中断しなければならないのもそれと同じことですね。

さて今回わたしが選んだ記事は、いまの状況にぴったり合っているでしょうか。

◆◆◆

最近書き終えた記事「MacOS X Lion:前を見据える者はどんな橋を渡ってゆくか (1)〜(4)」の最後で、ユーザー視点にたった使いやすさを目指した工夫のうち、iPadにはあるがLionにはまだないものを挙げておきました。

それが、「ホームボタン」の存在です。

すべてはここからはじまって、ある目的をもってそれぞれのアプリケーションを実行したあとそれを中断したい場合には、いつでも戻ってこれるというのが、iPadの持つホームボタンの、思想的な意味です。

ユーザーにとっては、「作業が終わったらホームボタン」、「アプリケーションの調子がおかしくなったらホームボタン」、「深い階層に潜って混乱してきたらホームボタン」、というふうに、それがあることによってもたらされる安心感こそがその主だった役割なのですが、これはLionにはありません。

◆◆◆

その代わりとなっていたのは、今までは"Finder"と呼ばれるファイルブラウザ(Windowsで言う"Explorer")でした。

一般の方には、アイコンがいくつか並んでいる「デスクトップ画面」といえば通じるでしょうか。


Mac OSがいまのかたちになってから十数年来、"Finder"こそが「Mac OSの顔」とされてきたのでした。

しかしこれは、Lionが登場する以前の、いわば「旧世代のPC」にとっては適切であっても、Lionをはじめとした「新しい世代のPC」にはそぐわないものとなってきています。

というのは、新しい世代のPCには、「ファイル」の概念がこれまでよりも薄まってゆくことが目指されているからです。

みなさんがいわゆるパソコンを習うときには、「ファイルを定期的に保存しろ」、「拡張子に気をつけろ」、「アプリケーションとの関連付けに注意しろ」などと、腫れ物でも触るかのごとく「ファイル」というものをくどくどと説明されたことだと思います。

ファイルの保存を怠って、アプリケーションがクラッシュして書き進めたレポートがあえなく取り戻せないものとなったとき、否を問われたのは、なぜだかユーザーの側でした。
一般的な常識からすれば、文字を書いているだけで落ちてしまうようなOSやアプリケーションを設計した開発者に責任をとってもらいたいところでしたが、コンピュータ業界の慣例によれば、なぜかそうはなってきませんでした。

しかし、これからは違います。
突然の停電や子供がリセットボタンを押したなどのアクシデントがあったとしても、Lionは、それまでの作業内容を自動的に覚えていてくれるからです。

◆◆◆

そうして作業内容が自動的に保存されるようになると、「それがどこに保存されているか」は、ユーザーがさほどの関心を払う必要は少なくなってきます。
スマートフォンからコンピュータの世界に入っていったユーザーのみなさんからすれば、それが当然なことでもあるでしょう。

そうすると、"Finder"というファイルブラウザは、あくまでもそれがファイルを閲覧するのに便利だから「Mac OSの顔」と呼ばれて来ていたところが、もはやファイルの概念を意識しなくても済むようになると、その地位を追われることになってきます。

最近の記事の、とくに(4)で追っていったのは、そのことでした。

では、ユーザーのいちばん目に付くところが旧来の意味での"Finder"ではなくなったとすると、
Macにおける「ホーム」(=いつでも帰ることのできる家)は、いったいどこにすべきなのか?
という新しい問題が出てきます。

Appleは、今回のLionではその答えを明確に打ち出せませんでした。
未だ混乱がある、とわたしが述べていたのも、このことです。
彼らがどのような答えを導き出すかはあとのお楽しみとして、わたしたちは、それがどんな形になるべきかを、すこし考えてみてもよさそうです。


(2につづく)