2011/04/28

iPad 2販売開始

発表の翌日に発売とは、急な話である。


職業柄、業界の事情はちらほら耳に入るので、延期していた発売日は、
ゴールデンウィーク前のどこかになりそうだと推測はついていたのだけど、
公式の発表があったのは、なんと昨日の22時前。

店頭での販売開始は今日の朝9時だったそうだから、
発売日の公開から発売まで、なんと半日もない。
なんともやきもきさせられたものである。

震災のための延期であったとはいえこのAppleの秘密主義、
普通の企業ならユーザーも憤慨して不買運動でも起きそうなものだけれど、
注目度の高さからか、そういった動きはあまりないようである。

それとも、Appleという会社への、素行についての期待値が低すぎるのだろうか。
いつもの、「新製品発表、翌日販売開始」ならばサプライズとして受け止められようが、
延期した発売日をぎりぎりまで公表しないというのはユーザーにとってメリットがない。

◆◆◆

ともあれ、わたしも出たらホイホイと付いて行ってしまう立場にいるのだから、
あまり批判できたものでもない。

わたしはiPad 2が発表されたときに、
「初代持ってるし個人的にはあんまり」みたいなことを言っていたのだけど、
友人がわたしの愛機を引き取るというので譲ってしまったのだ。
そうしたら、数日後に震災が起きて発売延期である。
ということは、もう1ヶ月以上もiPadなしで過ごしてきたわけだ。

ここしばらく新学期というせわしない時期を迎えていたので、
あまり触る機会がなかったということもあるが、
なくてもどうってことないな
というのが正直なところである。

あれだけ「毎日使っているから無いとやばい」なんてことを言っていたのに、
なんという変り身の速さかとも思われるだろう(本人もびっくり)が、
やっぱりわたしは、学問をするのを妨げられなければ、なにも不満が出ない人間らしい。

学問から離れて、
こういった現実の購買行動べったりの話をするのは、
なんだか雲の上からひょいと降りてきたような気がしてしまう。

◆◆◆

ただまあ、あったらそれなりに使いこなせはするので、
仕事の行きしなに店頭に行ってみた。

いきなりの発表だったためか、店員のお兄さん方が防犯ブザーを鳴らしてしまいながら
四苦八苦して、新モデルの什器の取り付け準備をしていた。

まだ時間がかかりそうだなと思ったので、10分くらいで店を出たのだけど、
カウンターのむこうでぼんやり立っているだけで
まるで声をかけてこない店員さんたちを見て、
このお店の売上は大丈夫なのだろうかと要らぬ心配をしてしまった。

「翌日いきなりの発売告知を聞いた上で、仕事前に店に寄る」という人間にすら
着目できない販売員というのは、どういう教育を受けているのかと思う。
「カモがネギ背負ってやってきた」というのは、まさにこういうことではなかろうか。

わたしのような人間は、声さえかけられればあっという間にコロリと転ぶような客なのに。

◆◆◆

どういうことなのかと思って、店内を見渡したら、
店の入口近くに、「御用のある方はこちらの番号札を」と書いてある。

ああなるほど、そういうことか。とすこし合点がいった。

どうやら本社か上からの指導なのか、
順番を抜かされたとかの客からのクレームなのかは知らないが、
「順番待ち」を制度化してしまっているのである。


一般的に言って、
こういう失態を犯してしまうのは、「制度」というものが、
同一の指示が行き渡りやすくなるという積極面と共に、
指示以外のことを主体的にやらなくなるという極端な消極面が存在することを認識していないからである。

もし「順番抜かしをする客がいる」のだとしたら、まずはそれを含めて制度を整えるのか、
それともそういった客は例外として処理するのかを問わねばならない。
なぜなら、制度化した途端に、それはある種の強制力を持って等しく店員の規律となると直接に、
店員が本来ならやれたであろう主体性という可能性までをも等しく制限してしまうからである。

規律をはじめとした労働の対象化が、
もともとは人のために作られたものであるのにもかかわらず、
できたらできたで人のありかたを縛るということを、「疎外」と呼ぶ。
かつてのマルクス主義なんかは、これを絶対に無視しなかったものである。

この場合にはやはり、店内には店員と客をふくめての規律が必要であるとしても、
そのことを隠れ蓑にした主体性の放棄につながっては元も子もないという、
矛盾した判断を両立させるための施策が必要である。

◆◆◆

さっき仕事帰りにもう一度寄ってみたけれども、結果はやはり同じであった。

やっぱり、誰も声をかけてこない。
什器を掃除している人たちも、まるであいさつがない。
どころか、手持ち無沙汰の店員たちが、
カウンターのむこうでなにやらおしゃべりばかりしている。

おそらくこのお店には、
「番号札をとった人間しか客として認識できない」
規律が存在してしまっているのであろう。

わたしは営業という仕事に偉そうな口を出せる立場にはないけれど、
これではあまりに機会損失もいいところ、というものではなかろうか。
「お客さんが店内で、なにを見ようとしているのか」という行動の中には、
無限とも言えるほどのおおきな手がかりが隠されていると思う。

◆◆◆

というわけで、わたしは組織についての一般論を確かめるという目標と、
どのモデルを買うべきかという意思決定をひとり達成して、満足して帰ってきた。
もちろん手ぶらである。

店舗での「対人サービス」に、「人間味」が無いのなら、
オンラインで買ったほうが楽だし早いもの。


iPadは新しく出たホワイトモデルにしようかと思っていたけれど、
フレームが視野に入りすぎて、没入感が著しく削がれることがよくわかった。
これは大きな収穫であった。

周囲が白縁、その内側の画面の余白が黒で、
その中に画像が表示されるような形になるのである。
対してブラックモデルならば、黒縁と画面の余白が黒で統一されているから、
黒い板の上に画像が浮きだしてくるような見た目になる。
容量は16GBでは足りないから32GBの、ブラックモデルにすることにした。

去年の夏に壊れたiPhoneについては、ホワイトモデルを新調することにした。
こちらについては、周囲が白縁であっても、画面の余白がほとんどないことも理由の一つである。

9.7インチのiPadについては白がダメで、
3.5インチのiPhone 4については白でも良いというのはひとつの矛盾だから、
ここを手がかりにして、周辺視野についての認識を考えてゆくことができる。
これも、大きな収穫であった。

2011/04/27

このBlogはなにを伝えたいのか(2)


(1のつづき)



ここまで断った上で、以前のエントリ「趣味はどう選ぶべきか」について、
これまた恥を忍んでご説明しておきたいと思います。

この記事を引き合いに出すというのは、
こういった考え方の形式を扱った文章だと、
具体的な内容があまり書かれていないことから、
細部の言葉尻だけを捕まえた読み方になってしまいがちであり、
そしてまた読者の論理性のありかたによって、
読み方が様々に変わってしまいがちであることがわかったからです。

◆◆◆

この記事では、わたしは「趣味は多くないほうがよい」と結論として書いておきました。
その理由は、外聞を気にして、あらゆることを中途半端につまみぐいをすると、
どれもこれもがモノにならずに終わりがちだから、ということなのでした。

ここまでは、文章をそのままに読まれても十分に伝わっていることだと思います。


ところが、これ以上の内容を読み取ってもらおうとすると、
どうしてもある程度論理の光を当てながら読んでもらう必要があります。
わたしはたしかに、「趣味は多くないほうがよい」と結論づけてはいるのですが、
そこだけを鵜呑みにしてしまうと、
「なるほど今の趣味は多すぎるのだな、もっと減らさねば」
といったような、表面的な理解に繋がってしまいます。

ここで、なにも趣味の数は少ないほどよいと言っているのではないことは、
「自分が大学時代にはいろいろと手を出してみたこと」や、
「表面的にはいまでも多趣味の人間に見えること」といった記述を見ればわかるとおりです。

ここについて、「あれかこれか」といった考え方をしてしまうと、
「こいつは前では趣味の数を減らせといったのに次には多趣味でもあると言っている、
あちこちで矛盾しているではないか」という印象しか持てないことになってしまいます。

ですからこの記事の場合であれば、
「趣味は多くないほうがよい、というのは、『どういう条件のときに当てはまるのか』」、
と問いかけながら読んで欲しいところなのです。

◆◆◆

わたしは結論をはじめに書いておいたあとで、
その結論にたどり着いた理由を説明する形で論じていました。

そこで、趣向をはじめとした自分というもののありかたをさぐるために、という意味を含めて、
学生時代にはいろいろと関心のあることに手を出してみた、と言ったのです。
そしてそのことをとおして、自分が目指しているのはこれなのだな、
という感触が得られるようになってからは、その問題意識に照らして趣味を選ぶようになっていった、
と書いておきました。

その経験をとおして掴み取れたのは、しっかり考えて趣味を選んでいれば、
たとえそれが、絵画や剣道や旅行や映画鑑賞などといった、
表面上ではなんらのかかわりのないジャンルの事柄だったとしても、
いつかはひとつの筋が通っていたことに気付かされるのだ、ということでした。

わたしはヤケクソとも言えるほどにあちらこちら手を出しては見たものの、そのことを通じて、どういう趣味を選ぶかよりも、どういう姿勢で趣味に向き当たるのかのほうが大事なのだとわかりましたから、読者のみなさんには、まずは「あちこちに浮気せずに、ひとつのことをきっちりやり遂げてみてほしい」と伝えたのです。
そのあと、そのことをきっちりやって「ひとつの道」が見えるようになってきたのであれば、新しいジャンルのことにもそこで得た普遍的な考え方を使えるのだし、違ったジャンルを極めようとしているひとたちとも、その普遍性をもって意見の交換ができるようになってくるのだ、と、脇道に逸れないための方法論を伝えたかったのです。

では、「ひとつの道」が見えるようになるためにはどうすればいいのか、という問の答えとして、「強い問題意識を持って物事に向き合う」ということを指摘しておきました。対象に向かって積極的に働きかけようとすると、「ここまではできるが、ここから先はまるでできない。やりかたすらわからない」という問題意識を持たざるを得ません。そうすると、「あれはどうなっているのだろうか。どういう仕組みになっているのだろうか。」と、あらゆる手がかりを探そう、という強い問題意識をもって、日常生活をすごすことになりますね。アルキメデスの「ヘウレーカ」、ニュートンのリンゴの逸話などを調べてみてください。(以前にわたしのBlogでも触れましたので、右の検索窓で探せると思います)
自分が実践における問題にぶつかったあと、どうしたら解けるのか、という問題意識を持っていさえすれば、ふつうの人ならばとくに注目せずに通りすぎてしまうような手がかりでも、「なるほど!」と思えるのです。

そういうふうに、ものごとの見る目を高くしておくということは、当たり前の日常生活を、論理の光を当てながら過ごす、ということですから、こういうふうに生活を送ってみて、ものごとの見る目が高くなっていれば、あらゆるジャンルのことについての見識眼がついてきます。

◆◆◆

ここでわたしは、「問題意識」や、「ものごとの見る目」、「見識眼」などといったことが大切だ、と言ってきた理由はこのようなものです。

かつてわたしたち人類は、動物であるサルからヒトへと進化してきました。しかしこの事実は、言ってみれば偶然の産物、といってしまってもよいのです。サルはなにも、社会性や精神を「持とうと思って」ヒトになっていったわけではないからです。サルは社会性を持つようになったことをきっかけとして、ヒトへの道を歩み始めるわけですが、ここまでは、「自然成長的に」作られてきたものです。ところがそれが人間と呼ばれるあり方になってゆくと、次には意識的に分業体制を整えた、「意識的な社会」をつくり始めてゆきます。括弧書きをしたように、ここでの社会というものは、動物やサルが本能のレベルで自然成長的に育んだものではなくて、あくまでも「意識的なあり方で」作られたものです。
そうすると、精神というものも、知らないうちに生成してきたものを自然成長のままに放っておくのではなくて、わたしたち人間が精神を持っているということを、「意識的に捉え返して」いってこそ、ほんとうに人間らしいありかたになってゆくのだ、という大まかな方法論を導くことができます。その方法論の土台は、以前にも述べたように、弁証法を日常生活の中で日々使ってゆくことで、それを自らの認識と相互に浸透するのと直接に弁証法性を鍛える形で、人類が培ってきた最高の論理の形態を獲得するとともに発展させる、ということ以外ではありません。

わたしはこのBlogをはじめてから、このことはくどいくらいに述べてきました。ただわたしも太宰に同調するようなところがあり、あまりくどくどとここはこういう意味があるのだ、などといった直接的な表現は好きではないために、圧縮した形で書いただけでした。ですからここでのほんとうの主張は、論理の光を当てて読んでいただかなければまるで浮上しては来なかったはずです。直近の表現を見てみてください。

 わたしたちは大人としての意識を持って、これから環境を作ってゆかねばならない立場にありますね。子どもと大人の違いというのは、子どもが環境に甘んじておればいいのにたいして、大人は、自らが環境を作ってゆき、そしてまた、自らが環境を作っていることを意識的に捉え返していることが最低条件なのです。Buckets*Garage: 盲目の人間が目を移植されたあと、その日から目が見えるようになるだろうか?(5)

ここでは、大人の最低条件が、「自ら環境を作ること」と、それに加えて「『自ら環境をつくっている』ことを意識的に捉え返すこと」だと述べておきました。これは、ハタチになったから大人として振舞わねばならないというのでは足りない、という意味です。自分が大人としてふるまって、そのふるまいを通して創り上げてゆく環境というものが、「いったいどのようなものなのか」と常に意識しながらとりくみ、その責任をとれるようになってゆくべきである、ということです。「人間としての精神」のあり方も、これと同じことが言えるわけです。


わたしの表現は、すべてこういった論理的な「形式」に力点を置いて書いていますので、具体的な知識にとらわれるのではなくて、文章全体をおおつかみに捉えて、そこでは「どのような流れ」、さらに進んで「どのような流れ方」でものごとが論じられているのか、と読み進めていっていただけると、文筆家冥利につきる、というものです。
これはなにも、わたしが常々論理を認められないことについての溜飲が下がる、といった馬鹿馬鹿しいものではなくて、論理性を自然成長のままにまかせておくことのもったいなさを伝えたいがためにやっていることです。ですから、「ああ論理ね、私も常々それは大事だと思っているよ」という態度では、どうしても、本当に伝えたいところが伝わっていないことになるのです。

◆◆◆

わたしはあの趣味についての小論を書き終えたあとに、こういった質問があるのではないかと思っていました。

たとえば、「趣味の中に、『博打』などを含めてもよいのでしょうか?あれは内容や動機はともかくその形式としては、立派な労働とも言えるものだと思うのですが」や、
「まっとうな趣味を持っている人と、いわゆるオタクとはどう違うのでしょうか?社会性があるかどうかよりも、もっと本質的な違いがあるのではないかと思うのですが」といったものです。

しかし、読者の反応からすると、あの小論は、そういったレベルの質問が出されるほどにはうまく受け止めていただけていないのだな、と思ったわけです。

◆◆◆

実のところ、結論などというものは、それが導かれた過程ほどには重要ではないのです。
わたしは今回、論理的帰結として、「趣味はあまり多くないほうがよい」と表明しておきましたが、これは、そのほうが「ひとつの道」にたどり着くためには効率が良いことをふまえてこう書いたわけです。ここでは、「積極的な意味を認められない場合には」という条件が付いていることがあってはじめて成り立つ結論です。
ですから、これは「趣味はとにかく多いほうがよい」としてもよかったのです。その場合には、入り口としてはたくさんのジャンルに思いを巡らせてみて、そのなかから「自分に響くものを選ぶという過程では」と条件をつけることになります。すると、本論の展開としては、自分に響いたものから共通するものを取り出して、そこから趣味を再検討し、絞り込んでいってほしい、という書き方になります。
もちろん、こういったいくつかの表現を検討したあとで、もっとも言いたいことを伝えるためにはどれがふさわしいか、と考えた上で、あのような表現にしたのですが、このどちらの書き方も、結局のところ、「ものごとの考え方」、難しく言えば「物事に潜む過程的構造」を強調していることにはなんらの変わりもありません。


ここを表面上に受け止めて、「多趣味賛成派」と、「多趣味否定派」などといった、ワイドショーレベルのくだらない派閥争いには、どうか短絡させてしまわないでください。感情的にはともかく、理性的な人間という生き物として、ああいった小競り合いに心底嫌気がさしているからこその、弁証法の強調なのですから。弁証法は「あれもこれも」を主張しますが、だからこそ、それがどういった条件ではどちらになるのかを判断するためのものごとの見方、「原理・原則」を要求することになるのです。

これは逆に言えば、原則を一致させるということは、表面だっての主張は、その時々の情勢をみながら柔軟に変えてゆくことがありうるのだ、ということでもあります。ですから、それが原則を持ったものなのか、時代の流れに振り回されているにすぎないのかを判断できるようにも、やはりものごとの見る目を常に高く持っておかねばならないことになりますね。

◆◆◆

わたしたちは、幼少からの義務教育を通して、知識だけをつめ込まれて育ってきました。なおのこと、そこでの思想というものは、「やる気を出せばなんでもやれる」式の、精神論、もっと悪くは気合論が、形而上学的にまかりとおっています。そうやって社会に出たと思えば、ライバルの言質をとってやりこめるといったような駆け引きが日常茶飯事でしょう。ですから、そんなところで自然成長してしまった論理というものは、世の中の立体的な構造を踏まえたものごとの正しい判断のためには、どうしても役に立たないどころか、表面的・平面的で極端を導く力しかもってはいないのです。極端な暴言・妄言を振りかざす人間が消えてなくならないのは、まともに生きているはずの人間にも責任があるのであって、彼女・彼らが、前者の無意識的・意識的な踏み外しを、論理的に指摘できないからです。

これはこんな文章ばかりのBlogを見に来てくれるような奇特な読者のみなさんだからこそ言うのですが、きちんとした論理を持ってください。そのために、ここを使ってください。わたしは「ものごとの眼を高くする」方法を探求できるやりかたを見つけて以来、これこそ仕事や道を問わず、万人の礎になるものだ、と思って、知識的な習得と共に、日々論理面の向上を心がけてきました。それこそ、論理的に見える事実が一つも見つからない日には、恥ずかしくて眠れないほどです。事実、各方面で歴史の風雪に耐える作品に共通しているのは、知識的に優れているよりも、論理性が高い、という特徴です。弁証法と名付けられたその論理性は、「弁証法を使いこなす」段階までいかなくとも、「弁証法に使われる」段階でさえも、十分に効果が実感できるものです。なにとぞ、日常生活での修練を怠らずについてきていただけるようにお願いします。

そこでの基礎的な理解は、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』ですが、『新しいものの見方考え方』など、日常生活での弁証法の効用を描いた同氏の著作も理解の手助けになります。もっとも、自ら学ぶ姿勢のある方ならば、すでに実践されていることでしょうから蛇足でしょうか。こういった方法論を、実際にやるまえからあまり細かく指摘するのはよくありませんしね。ほかに言えることがあるとすれば、弁証法というキーワードを含んでいる他の書物にはあたらなくてけっこうです。
ともかく、基礎的な理解がすみましたら、ただちに実践で使ってみてください。「否定の否定」は大きな流れの中でしか顔を見せないために難しいですが、ほかの2つの法則、とくに「対立物の相互浸透」などは、慣れてくればとてもたくさん見つかります。
「弁証法の現実への適用はこれであっていますか?」をはじめ、ご質問は随時。お待ちしています。

◆◆◆

読みやすいことばで書いた解説はここまでです。
以下は余談として、あの記事が持っていた大まかな構造と、「あなたのやってきたことは、すべてつながる瞬間があります」との予言じみた発言の理由について。

(余談をお読みになる場合はつづく)

2011/04/26

このBlogはなにを伝えたいのか(1)


※このエントリは、下のエントリに補足が必要であると思いましたので、
その続編という位置づけにもなっています。
Buckets*Garage: 新しい季節をおくる諸君へ:趣味はどう選ぶべきか


いつぞやの評論で、太宰治がこんなことを言っていました。


「発表した作品にたいしてあとで説明を付け加えるのは、恥だと思っている。」

わたしも、その通りだと思っています。
恥だと思うというのは、ある作品を、その作品そのもので完結する形で書ききったのならば、余分な説明をごちゃごちゃ付け加えて、読者にはこう読んでほしい、こう評価してほしい、と後付で弁解するような姿勢は作家として未熟であり、人間としても見苦しい、という意味合いだったと理解しています。

◆◆◆

わたしとしては、ここで書き散らかしている散文というのは、もっと公に公開するために書く文章と比べて、また違った意義のあるものになっていると思っているのです。
それというのは、より公式的な場で発表する文章が、一言一句誤りのない、精確で緻密な文章表現を要求されるのに対して、こういった、面識のある人たちを中心としながらも公に向けて広がりを持たせられるコミュニティの中で発表する文章というのは、実生活に即した事例を例えに引きながら、砕けた表現を使えるからです。
それはとりもなおさず、読者の理解の助けになるという利点がありますから、わたしはそういう意味で大事にしていますし、読者からの反応も楽しみにしています。

もちろん、だからといって誤字脱字があってもよいなどとは考えてはいませんが、これとて、たとえばここにある内容を書籍化するときには、再三再度の読み直しと突き詰めた表現の修正が必要になってきますから、もしそういったクオリティが要求されるのであれば、ここでやっているような、週に数本といったペースではとても発表できなくなってしまいます。

◆◆◆

なぜこんなまえがきが必要になっているかと言うと、最近のエントリの反応を見ていると、
人によって読み方は様々なんだなあ、
と思わせられるところが多くなってきたからです。

もっとぶっちゃけて言うと、論理的に読んでくれている人と、そうでない人の開きが大きくなってきたなあ、ということです。
そうすると、どうしても、「あの時の自分はこういうことが言いたかったのだ」と言わなければなりません。

たとえば、これはあえて指摘されなかった例を使って説明するのですが、わたしは以前に、「趣味はどう選ぶべきか」と題した文章の中で、「趣味は、あまり多くないほうがよい」、と言いました。

これなどは、ここだけを知識的に受け取ってしまうと、とくにわたしと直接面識のある人であれば、こんなふうに思ってしまうかもしれません。

「あれ、あの人って前に、私にこう言わなかったっけ。『あなたの今までやってきたことは、ある時にすべて活かすことのできる瞬間が来ますから、どれもあきらめないで、ずっと大事に持っていてくださいね』と。そうすると、これって矛盾してるんじゃないかしら。」


そもそも、このエントリのきっかけとなった学生さんからのご質問は、
「なにか新しいことをしようと思うのですが、どんな趣味を選べばいいでしょうか?」
というものであったのに、わたしはそれに対して、
「あなたは自転車に乗るべきです」、「そっちのきみには水墨画が向いているでしょう」
などといった、どんな趣味をすべきか、という具体的な答えは出していません。

この答え方を、小学校の「こくご」のような見方で採点すると、赤点になってしまいますね。

◆◆◆

では、わたしはこういった意味で、食い違う内容と形式を含んだ文章を発表しているのでしょうか。
ここについて、今回は恥を忍んで補足して説明しておきたいと思いますが、
これは、まったくの誤解です。

上で述べた理由によって、細かな誤りが含まれていようとも、
時間の許す限り自分なりに見なおしていますし、筋は通った文章しか発表していないつもりです。
ですから、この箇所については、「意図してこう書いたのだ」と理解してくださると助かります。
より進んで、「意図して書いたとしたら、その意図の中身はどういうものだったのだろう」とまで考えてもらえれば、いちばんうれしい読み方をしてもらっていることになります。

そしてこういった読み方をしていただくためには、
どうしても、目の前にある文章を、「論理的に読む」という姿勢を持っていただくことが、
どうしても、どうしても必要なのです。

これはどれだけ強調しても、わかろうとしない姿勢を固めてしまった人たちには
単なるあてつけにしか見えないところなのですが、論理は直接は目には見えないために、
どれだけの地位を持った人間であろうとも、見ようとしなければ見えないことも少なくないのです。

◆◆◆

たとえば、こんな話でわかっていただけるでしょうか。

ある人が、「生命は常に大事だ」という信念を持っているとしましょう。
この人は、ごく近しい人たちにたいしてのみならず、道行く人が困っていれば助け、
傷ついた動物がいれば仕事を休んででも治療に連れてゆくような人です。

この人が、あるとき災害に遭って、妻と娘と、飼い犬とで
限られた食料を分け合わねばならなくなりました。
飼い犬というのは、あるときに飼いきれずに捨てられていたところを、
この人が不憫に思って助けた犬でした。
そのまま無常にも時は過ぎ、食料が今日のぶんもあろうかといった段になったとき、
この人がとった行動は、「妻と娘のためにだけ、食料をとっておく」という選択肢だったのです。

さてそうすると、この人がとった行動からすれば、
彼は「生命は常に大事である」という信念を、曲げたことになるのでしょうか。
原則に文字通り従おうとすれば、自分はともかくとして、
妻も娘も飼い犬も、すべてに等しく食料を分け与えるべきだ、
ということになるかもしれません。

◆◆◆

しかしこういった原則論は、
「私も妻も娘も飼い犬も、すべては生命を持っているという意味では同じ価値なのだ」
という判断によるものですね。
この判断というのは、私・妻・娘を一括りにして「人間」だとし、同じように飼い犬も種別の上では「犬」だとしたうえで、さらに「人間」も「犬」も生命体として生命現象を営んでいる、という一般化を行ったことで、「どれもが生命を持っている」という結論にたどり着いたのです。
これを「家族」という範囲にとどめても、やはりすべての対象は同じ扱いになります。

こう言った判断は、後世には美談として残るものですから、
第三者からみた後日談ふうに言えば賞賛に価する態度に映るかもしれないのですが、
そこには当事者のそのときの意図がほとんど汲み取られてはいないのですから、この場合には
「もし自分が当事者だとすると、飼い犬のために妻と娘を犠牲にできるか」
と考えてみなければなりません。

この選択に、どんな場合にでも当てはまりうる答えを出すことはできませんが、
もし彼が、断腸の思いで飼い犬に食料を回さなかったとしても、
責めることができないことくらいは感じとってもらえるのではないでしょうか。
それは、わたしたちが人間の社会で育てられたことと同時に育まれた規律に照らした判断といえます。

これは常時は意識しにくいことですが、
わたしたちは常々、目の前に起こっている物事を抽象化・一般化するにあたって、
「実践上の必要で」、「生活に照らして」、判断しているのです。

つまり今回の例で言えば、
家族の構成員を、「人間と犬」の段階でとどめておくか、「生命」という段階まで上げて考えるか、
という抽象化にあたっては、その人の「人間観」を基礎として行われているということです。

ここを、「どんな場合であっても」生命は大事なのだ、等しく守られねばならない、
という原則論を現実に押し付けようとするときには、
つまりこのような的はずれな一般化が認められるときには、
浸水を避けて家に上がってきた蟻にも、食事を分け与えなくてはならなくなります。

それは差がありすぎるというのなら、カラスが子連れのカモを襲うのを見て、
カラスをほうきで追い払うご老人のことを想像してみるといいでしょう。
同じ「鳥類」なのに、なぜあれほど扱いの差があるのでしょうか。

わたしたちが当たり前にしている抽象化という作業においても、それがどのような論理のレベルで行われているかを見つめておくことが、正しい判断のためにはやはり必要です。

◆◆◆

こういったたとえは、文字の上では極端に過ぎるように見えるものですが、それでも、「正しく抽象化して論理をつかむ」ということが、ものごとを正しく把握するためには、どうしても必要になってくることに変わりはありません。
「正しく」抽象化する、と断るのは、とにかく抽象化しさえすればなんでもよいというわけではないのだ、抽象のレベルをどこまで引き上げるかが大事なのだ、ということを強調したいからです。

今回の場合であれば、それとは逆に、抽象化された論理的な表現をどうすれば正しく受け止められるか、という向きにも、抽象化がどのようなレベルでなされているのかを見抜く目が必要になってきます。

わたしはそのことをわかっていただきたいがために、
常々、「ものごとを見る目を高く持っていてほしい」という意味を込めて、
どんな立場でどんな生活をしてどんな仕事をするにあたっても、
「論理は大事なのだ。正しい実践のためにこそ必要不可欠なのだ」、と言っているわけです。

ここでいう本当の「論理」というものが、
読者のみなさんが「ああそうか、あの論理ね」というふうに、
ごく一般的に持っておられるイメージとは、あまりにかけ離れているのですよ、
ということをこそわかってほしいための、くどいまでのメッセージなのです。
だからこそ、形而上学に対する弁証法という論理を強調するのです。

しかしここを、「ああその論理ね、もう知ってるよ」といった姿勢で読まれては、
「論理的に考えてほしい」と言ったことを、知識的に受け取っていることにしかならないのです。
その姿勢では、わたしがこのBlogで強調したいことすべてが、まるで読めたことにはならないのです。
どうか、そこのところを、わたしの顔を立てると思ってでも、
いい大人になるためにやってみるかと思ってでも動機はなんでもいいですから、
もう一度ゆっくり噛み締めていただけたらうれしいな、と思うのです。

ここで書いてある文章を理解するにあたっての方針として簡単にいえば、
内容を書かずに考え方という形式だけを述べたり、行間が空いているようなところについては、
「ここには隙間があるようだけれど、これを書いた人間はほんとうはどういうことが言いたいのかな」
と問うてみてほしい、ということです。

(2につづく)

2011/04/22

ひさしぶりのどうでもいい雑記

ちょっと砕けた話でもしましょうか。


わたしは研究の他には、学生さんと夢について、生き方について、人間というものについて議論するのが好きだ。
べつに相手は学生さんでなくてもいいのだけれど、スレた大人とはウマが合わないのだから仕方がない。

◆◆◆

そんなわけで、我が家にはどこからともなく学生たちや志のある社会人たちしか来ないのだけど、
あるときどう調べたか、クレームの電話がかかってきたことがある。

いわく、「お前、学生を集めてなにか企んでいるらしいな」。
学生が来るのは確かだし、学問を万人の手に還そうとしているのも確かですが、
別に無理に来させているわけではありませんと言ったら、
「じゃあ洗脳しているということを認めたことになるぞ」という返事であった。

もうここまで来るとおかしくなってきて、
失礼ながら自分でも吹き出すのをこらえることができないほどで、
失礼のないように受け答えをするので必死だったので、
ケイサツを呼ぶだの訴えるだののあと、おわりの挨拶が
「いまどきアカなんか流行らんぞ!」
ということくらいしか覚えていないくらいなのだが、
もうここまでキチガイ扱いされると返す言葉もない。

わたしは学生を集めて黒魔術にかけて、
政府を転覆させんと革命を狙う悪の枢軸、といったところらしい。
出すところに出すというなら、勝手にすればいいと思う。

わたしとして言えることは、学生たちは勝手に来ているのであって、もっと言えば、彼女・彼らの、大学でのあまりの扱いの酷さに、このままでは彼女・彼らの志だけがくすぶってせっかくの可能性が潰れてしまうだけだと同情するあまりに、なにかできることがあればと授業やら議論をしたりしているだけである。
もし訴状やら事情聴取なんかが来たときには、「XXの話によれば、XXがXXをXXしてXXにXXしてしまい、XXたちが取り残されてXXになってしまうそうなのでなんとかしてくれませんかということでこんなことになっているのです」などと、知る限りの事実をありのままに証言すればいいのかもしれないが、これって、他でもないご本人の損にしかならないんじゃないのかなあ。

わたしは学生から、な〜んにももらったことはないぞ。むしろ、持ち出しのほうがはるかに多いくらいである。ありがたく受け取って、またお返しをするのは、形にはならないものばかりだ。だからわたしのところには、本質的なものを見つめて目をそらさないような、そんな人間しか来ない。

◆◆◆

わたしはこういう話を人としていると、研究でも実生活でも、
なんとも社会とは矛盾に満ち溢れているなあ、
まだまだ自分にもやれることがあるなあ、
昔の偉人たちも、こういう矛盾に潰されずに歩みを進めていたんだなあ、まだ道は遠しだなあ、
という、笑いやら悲しみといった雑念を、はるか彼方に置き去りにしてきたような、
見渡す限り色があるようでないような平野でひとり雲の行き交うところをながめているような気分になって、
我が身を越えたはるかな気持ちになってくるのである。

まあそれはどうでもいいことなのだが、ともかく、
やるべきことの遙かさや深みに圧倒される毎日にあって、
「後進の抱える人間存在に関わる本質的な問題は、すべての生活に優先する」
という学者であるための鉄のオキテに従って、
こうして表面上はゆったりとした時間を過ごすことがあるというわけだ。

◆◆◆

そんなときは決まって外にでるから、
こういった話は公園のベンチなんかに座ってすることが多いのだけど、
決まってやってくるのが、鳥なんかである。

ハトは足をよじ登ってくるわ、スズメは肩に止まるわ。

ふつう、鳥って肩までは来ないよねえ。エサ持ってるわけでもないのに。
というふうに、これは不思議だなぜだろうなぜかしらと首をかしげていたら、
相方には笑われるわ、まわりの人たちに写真を撮られるわで、話どころじゃない。

動物のほうでも、自分にエサをくれる人間がわかったときには集まってくるものだけど、
わたしは日常的にエサをやっているわけでもないし、
間食をする習慣がないのでやれるものは持っていない。
木かなんかに見えているのかしら。
それだったら、ベンチでチュンチュンやっているので十分ではないか。
第一、なんで学生には止まらんのだ。

わたしとしては問題を解くどころか、
むしろ肩に糞を落とすかもしれないという現実的な問題に向き合わされ、我に返るばかりである。

これ、認識論をやっている人間としては、やっぱり解かねばならない(?)のだが、これは難問である。
禅の悟得の問題を解こうとしている方もおられるが、あの理論で解けるのだろうか。
精神がないから認識もしないはずの動物が人という対象によってその行動を変えるということは、やはり対象の方にしか問題がないことになるから、人の生活に近い動物は、精神がないながらも認識のあり方に近いものを、人間を含めた社会性の中で本能の上に生成させてきつつあるのでは…そういえば北海道を自転車ツアーしたときは、やたらトンボにたかられたっけ、あれはさすがに関係ないよねえ…うーん、わからない。

◆◆◆

それにしても、人間からは狂人扱いされるのに動物からは慕われるという事実から察するに、
わたしを慕ってくるような学生というのは動物レベルということだろうか?
とからかったら、相方から「それは形而上学的な考え方で、弁証法的ではないでしょ」とやられた。

後進も、さるもの。
歩みは、ままならぬもの。
まだまだ、先は長いようである。

2011/04/21

資料の添付

前回のエントリで言及したので、
薄井坦子『科学的看護論 第3版』について、
わたしが苦労しながら読んだときに作った資料を貼っておきます。

※ダウンロードは下のリンクから。これはただの画像です

http://dl.dropbox.com/u/10755624/生物体を支える諸過程.graffle.pdf

◆◆◆

なぜお前が看護学などやっているのかと言えば、
学生に教える必要があったという表面的な理由よりも大事なことに、
この本が、学問体系、論理、認識について非常に優れたものを含んでいるからです。
つまり、学問をするにあたって読まなければならない本だからです。

論理的に最も進んだ書籍であれば、ジャンルなどにとらわれず、
しっかりと読みこなしておかねばならないのは、
本質的に万人の礎となろうとする学者にとっては常識ですが、
社会的評価だけを基準にペーパー、ペーパーと言っている研究者には理解しがたいところかもしれません。

ですから、「一流とはどういうものか」というものごとの見る目の高さがなければ、
言い換えれば知識的にしかものごとを見られず論理的に見れなければ、
手当たり次第に新しい論文を乱読するしかなくなります。
古典や価値のある本を1冊熟読することは、凡百の本を数百冊読むことにはるかに勝りますので、本屋さんの店頭に並んでいる雑書の類に道草を食わないようにしてください。

盲目の人間が目を移植されたあと、その日から目が見えるようになるだろうか?(5)

(4のつづき)



 もののついでに述べておきますと、文中で使った「健常者」という言葉について、感情的な感触から言えばわたしは好きではありません。できれば使いたくなかったのですが、湾曲表現はかえって読者の理解を妨げると思ったのでそのままにしてあります。軽率な表現と感じる方がおられましたら謝ります。
 そう言うのも、わたしの数少ない経験の中でも、健常者ではないと見做されている方の中にも、健常者とされる人間以上に前向きで、器質的欠陥をなんらのハンデとされない方もおられることを見てきているからです。左手の小指がなければ刀は振れませんから、身体的に損なわれていても気持ち次第でなんとかなる、などといったふうに精神での身体面の克服を過度に拡大することは誤りにつながることも確かですが、認識的実在としての人間の力は、計り知れぬものがあります。

 ところが、人間が認識的実在であるということは、悪い面にも働きます。わたしがここで警戒しておきたいのは、上で述べたこととは逆に、器質的には問題がなくとも認識には明らかな欠陥がある場合もある、ということです。残念ながら現代でも、「器質的に欠陥がなければ健常者なのだ」という現象論的タダモノ論がまかりとおっているという事実があります。学生を数多く見ているわたしにとっては、彼らにとってより致命的なのは、器質などよりもむしろ、目には見えない認識のあり方のほうがより深い問題となって顕れていることが目に付きます。

 たとえば、現象としては「優しい性格」とされる人のことを考えてみてください。それが相手の感情を的確に汲みとって、相手の発する言葉をいい加減に受け止めて減じたり自分勝手に拡大解釈したりせずに、そのままに受け止めようという意図をもって、実際に行動にうつせる性質を指しているのならば、これは文句なしの優しさというものです。この場合は、ものごとの受け止め方が深い、つまり認識の力がしっかりとある上で、理性的な判断が行われているわけです。
 しかしこれとは違って、認識の受け止め方がぼんやりしているために、目の前でどんな非行が行われていようとも、目の前の人物にいかなる欠点があろうとも、「まあいいんじゃないかなあ、人それぞれだし」などといった受け止め方や行動をする場合があります。

 日常生活のなかでは、両者ともに「優しい性格」とみなされることが多いでしょう。しかし後者の場合には、自分が危機的状況になったり孤独を強く感じたりすると、とたんに振る舞い方の指針を失い、異常な行動をとることがほとんどです。こういったものごとの受け止め方の弱さが災いして大きな事件につながった場合、周囲は「いつも優しいあの人がどうして…」などと言ったりもするのですが、これなどまさに、心は眼に見えないからと軽視、または無視した結果なのです。
 アメリカ発祥の極端な行動心理学は、「人の内面は測れないから計測可能な外面だけを見るべきだ」などといって、学問の世界で堂々とこの誤りをやってのけるというアクロバットを披露しています。墜落するのは勝手ですが、わたしたち人間の上に落ちてこないようにしてほしいものです。悪口はともかく、こういった流れは日本の心理学界にも無批判に入ってきており、認識の在り方についての理解は、学者のなかでもまるで進んではいないことがあります。このような場合には、研究すればするほど人間観が歪んだとしても不思議ではありません。

◆◆◆

 話をもとに戻しますと、「優しさ」ひとつを大きく見ても、これだけの違いがあるのだということです。現象としては同じような行動をとっているようには見えますが、その過程における認識の構造はまるで異なっています。ましてや、ある人の中に見た目には厳しいものの裏には優しさが潜んでいることが見抜けなければ、まるで正反対の評価にもつながってしまうでしょう。いまの教育の立場にある方は、どうもこういった認識のあり方に眼を向けるという訓練を、まるでなさっていないのではないかなと思われる節があります。文学の世界の人たちも、こういった矛盾をもっと扱って欲しいと思うのですが…。もし文学を通して読者を真に人間たらしめようとするのならば、退廃的な恋愛ばかり描いている場合ではありません。
 少なくとも、後進を指導する立場にある人間であれば、ここを「感受性を伸ばす教育が必要だ」などという段階でとどまることなく、「感受性がどういうものなのか」、「どうすれば伸ばすことができるのか」と理性的に考えを進めていってもらいたいと思います。学者であれば、前者は過程的構造の解明と理論化、後者は理論の現実への適用、技術論、教育論にあたりますね。現実の人間は、感受性の欠如を指摘されても、それをどう伸ばしてゆけばいいかが皆目わからないから、困っているのです。「感受性をつけろ」などといった意見が、訓戒としてだけならばともかく後進の本質的な発展に結びつくかと問うてみることができないのは、知識一辺倒の受験アタマを現実に無理やり押し付けようとしているからです。言葉というものは、あらゆる特殊な事情を捨象して抽象したものなのですから、そのままではその内実に含まれている像の厚みまで伝わるわけがないのは当然です。それを受け止める側の認識の解明がなされていないから、なんらの実践的な意味のない指導になってしまうのです。

 またよくある「子どもは愛されるべきだ」などという意見は、単なる教育についての思想なのであって、教育「論」ではあっても断じて教育「学」ではありません。以上のような、象牙の塔からの天の声や、感性的な教育論ではいけないのです。もし机の上で熱心に本を読んで、ある仮説を持ったとしたら、それを実践面でも使ってください。複雑な現実を読み解く指針としてみてください。どうしても、それがなんらの指針にもなりえないという事実を突きつけられて、愕然とするはずなのです。アイデアレベルの教育論では、子どもはまっとうに育たないことが、もはやあまたの実例を通してわかっているのですから、わたしたちは「学問」をしてゆこうではありませんか。

 わたしたちは大人としての意識を持って、これから環境を作ってゆかねばならない立場にありますね。子どもと大人の違いというのは、子どもが環境に甘んじておればいいのにたいして、大人は、自らが環境を作ってゆき、そしてまた、自らが環境を作っていることを意識的に捉え返していることが最低条件なのです。

(了)


◆よりくわしい学習のために◆

 人間の認識のあり方について、より進んだ学習をしたい場合には、以下の文献をあげておきます。ただどちらも、三浦つとむが『弁証法はどういう科学か』で述べている弁証法という論理を多分に含んだ理論を展開しており、一部にはそれを大きく超える論理も含まれていますから、三浦つとむの上記本を中心として、わからない部分を『新しいものの見方考え方』などで補いながら、認識・論理についての基本的な理解と合わせて読み進めてほしいと思います。また前述したように、学習を進めるとともに、実践で使ってみることを忘れないでください。

【指定参考文献】
・薄井坦子『科学的看護論 第3版』
・海保静子『育児の認識学』

2011/04/20

盲目の人間が目を移植されたあと、その日から目が見えるようになるだろうか?(4)

(3のつづき)



 評論についての評価は以上として、ここでの術後の女性の認識について、少しつっこんで考えてみましょうか。術後、自分がベッドに横たわっていることに気づいた女性の立場に立って、彼女のものの見方を想像しながら、考えを進めてください。

 彼女は、それまでの視覚を除いた四感をとおしての生活のなかで、五感を持った人間からの、主に音声を通した表現から、世の中には自分の感じられること以上になんらかのものがあるようだ、ということは知っています。その像はうまく結ばれてはいないけれど、窓際にでたときの陽の光の暖かさ、手を握られたときの暖かさが物質面だけではないこと、ベッドから裸足で降りたときのひんやりとした床の冷たさなどを知っています。ですから、盲目時に培ったその像は、目が器質的に働きはじめたことと浸透する形で認識の中の像として結実することを、大きく手助けするはずです。
 そういう意味では、赤ん坊が生まれると同時に感じる温度、音、空腹感などがそれとわかりようもなく迫ってくる世界からの大きな衝撃の波をうけて、「おぎゃあ」という驚きの声をあげることとは違っています。彼女の場合であれば、赤ん坊の「なにがなんだかわからないけれどなんとかしてくれ!」という鳴き声とはちがって、世界を理解する手がかりをあらかじめ獲得しているからです。

 しかしここを逆に言えば、四感で成立させることのできていた認識を、五感めの器質が物理的に追加されたからと言って、あらかじめ持っていて、なおのこと完成している四感による認識と、あたらしく獲得しつつある視覚とが、うまく相互浸透しうるかどうかは未知数である、ということでもあります。わたしの限られた経験と知識を披露するのもためらわれるのですが、あえて誤解を恐れずに言えば、ある程度の年齢となって世の中についての認識のあり方が完成されたあとでは、生まれた時から五感を持って対象に向き合ってきた人間と比べて、やはり差が出るのではないかな、という印象を持っています。これは積極的な面と、消極的な面を含んでいます。個人的なお付き合いのある方が言うには、「目が見えなくても色はわかりますよ」とのことでしたので…。
ともあれ認識というものは、人間ならば誰しもが当たり前に持っている働きであるにもかかわらず、歴史的に見れば哲学的にしか完成されていません。そこういった思考実験で得られた仮説を、その段階に留めることなく、現実の中で確かめてゆくことで科学的な学問として確立してゆかねばならない時が来ているのです。

◆◆◆

 人間の認識を考えるにあたって対象とするものは、こういった文学作品に限られるわけもなく、ましてや健常者とは呼べないとされる人たちのことを熱心に調べまわる、ということに限られるわけでもありません。日常的に問題意識を持って、つまり「この人はこういう行動をしているけれど、どういうことを思ってそうしたのだろうか?」と考えて仮説を立てて、それを確かめてみることを通して心の眼を高く持っておこうとすればいいのです。いいですか、「日常的に」、ですよ。意識的に実践する場合は、そういうものごとの見方をしなければ身体が変になるくらい、徹底してやってください。

今回の問で登場した女性についても、「生まれつきの盲目」ではなくて、「小さい頃は目が見えていたけれど事故で盲目になり、再び光を取り戻した」場合には、どういう認識のあり方になるかを考えてみてください。今回の場合とはまるで違ったものになりますよ。そういった思考訓練が正しく成された後であれば、後述する人間の認識についての交通関係を描いた書籍などは、なるほどと心の底から納得しながら読めるようになっているはずです。

さて、問についての直接的な言及はここまでです。問に答えを与えるならば…もう言わなくてもおわかりですね。こういった基礎的な誤りに気づかないまま作品を書いたり考察を進めてしまったということは、筆者である太宰の、人間の認識への理解が、「器質的に整えば認識も直ちに付いてくるはずだ」というタダモノ論の域を出なかったのだ、ということです。逆に言えば、人間の認識への理解は、半世紀とちょっとでここまで進展したのであり、またこれからの発展の余地を多分に残しているということにもなるわけです。

◆◆◆

ここで終わるつもりでしたが、太宰の誤り方というものは、現代でもよく見かけるものだなと思いますので、もう少し指摘しておこうと思います。以下は、眼に見える「現象」に引きずられて、その「過程に含まれるもの」を見落とすことの危うさを述べておきます。認識についての科学を、より学習を進めたい方は参考にしてください。

(5につづく)

2011/04/19

文学考察: 女人訓戒ー太宰治(修正版)

文学考察: 女人訓戒ー太宰治(修正版)


 今回のものは残念ながら、あまり意味のある評論になっていませんので、
一般読者のみなさんは以下の評論及びコメントを参照なさらなくてもけっこうです。


◆ノブくんの評論

 著者は辰野隆の「仏蘭西文学の話」という本の中のある文章に興味を惹かれています。それはある盲目の女性に兎の眼を移植したところ、なんと彼女は数日で目 が見えるようになりました。ところが、その数日の間、彼女は猟夫を見ると逃げ出してしまうようになってしまったというのです。一体、彼女は何故逃げ出すよ うになったのでしょうか。
 この作品では、〈物質から精神へ、また精神から物質へのある流れ〉が描かれています。
まず著者はこの問題を解くにあたって、タンシチューを食べるようになった為に英語の発音が上手になった女性や、狐の襟巻きをきると突如狡猾な人格になる女性のエピソード等を持ち出しています。その中で彼は、「狐がマダムを嘘つきにしているのでは無く、マダムのほうから、そのマダムの空想の狐にすすんで同化して見せているのである。」と述べています。つまり彼女たちは、自分の認識を物質(兎の目や襟巻き)に向けることによってそれを膨らませ、自ら兎になっていき、又私たちが考える狐のように狡猾になっていったのです。ここから、著者は物質が人間に影響を及ぼす場合、物質よりも人間の認識のあり方こそ、強く影響を及ぼしているのだと主張していることが理解できます。ですから、盲目の彼女は兎の目を大切にするあまり、猟夫を恐れるようになっていったのです。
 ここまで述べると、人間の認識こそが影響を及ぼしており、物質からの影響はまるでないように感じます。ですが果たしてそうでしょうか。一体私たちの認識というものはどこからきているのでしょうか。もう一度はじめの問題に戻って考えてみましょう。
 そもそも、盲目の彼女は一体何故、兎の目をそこ迄大切に思うようになっていったのでしょうか。まず彼女は盲目の為、世界に光があることや色があることを一切知りません。そんな物理的に障害を持って生まれた彼女が、目を移植したことによっていきなり光や色を認識できたでしょうか。はじめに目を開けた瞬間、彼女は世界の明るさに驚き、目を瞑ったのではないでしょうか。やがて、そのうち光にも慣れていき、今度は世界に色があることを知ります。そして、次第に物質と物質の境界まではっきりと分かるようになります。こうした過程を辿っていくうちに彼女は、自分の目で世界を見えることに対して大きな感動を覚えていくことでしょう。この感動とは、無論これまで目が見えなかったという物質的な要因があってこそ、感じているのです。だからこそ、彼女は移植した自身の兎の目を大切にするようになっていったのです。
 確かに、物質への感じ方はその人物の認識が影響を及ぼし、自身の行動や別の物質に影響を及ぼしていることは事実です。ですが、その認識というものは、その人物の環境や性質が大きくかかわっていることを忘れてはなりません。


◆わたしのコメント

 これではダメです。

 まず評論の姿勢として、作品を頭ごなしに批判しようとする態度が、評論することの意味そのものを失くしています。
 常々言っているように、評論とはあくまでも原文を忠実に理解した上で、要点をあらすじとしてまとめ、さらに要して筆者が最も述べたかったことを一般性として措定したあと、作品全体が、一般性を使ってそこからほとばしるかのごとく解けうることを示したのちに、問いかけとしての一般性の答えを最後の締めとするものです。

 わたしがコメントや作品のなかにある見落としを指摘していることに引きずられて、評論の姿勢まで批判的なものとしては絶対にいけません。以前にもことわっておいたとおり、わたしは論者・読者の理解を助けるために、作品のなかに含まれる構造を学問用語で解説しているにすぎません。それを形だけを真似して、学問用語などで評論を書こうなどというのは、筆者への敬意を欠いた思い上がりも甚だしい行いというべきです。
 わたしが解説している過程的構造は、作品の理解のために活かせばいいのであって、「おれはこんなにわかっている」と自慢気に専門用語をひけらかしながら主張するものではありません。極意論的に言いますが、作品に含まれている論理性を本当に理解していれば、つまり認識の上では過程的構造を把握できていれば、評論という表現の上ではものものしい学問用語は一切出てきません。さらにいえば、それこそを、形式を壊して内容をすくいとる「止揚」というのです。

◆◆◆

 今回の評論については内容に言及するのも馬鹿馬鹿しいほどですが、作品の中に「物質から精神へ、また精神から物質へ」という2つの流れがあることを指摘したうえで、結論が「両方とも大事」とはなんともはや、というべきです。作品から忠実に抜き出した重要な問題に、自ら解答を与えるのが評論というものなのに、自らの問いかけに答えることをしないどころか問題をぼんやりと散らかした上で満足気に筆を擱くとは、どういうつもりなのでしょうか。
 弁証法は「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」を主張するのですが、そのことは、「あれもこれも同じく大事である」と、あれも大事だがこれも少しは大事だということの区分を形而上学的に相対化して述べることとは決定的に違うのです。あなたは、「もともと空気中にも水分が含まれているから、雨でも晴れでも同じである」と主張するのが弁証法だと勘違いしていませんか。そんなものは、冗談ならばさておき弁証法では決してありません。あなたのしているのは、弁証法ではなくて単なる相対主義です。弁証法は、対極が互いに浸透することを認めた上で、「どのような条件においてはどちらになりうるのか」を明らかにするものです。この誤解を解かないことには一歩も前に進めないほど大きな落とし穴に嵌っていることをしっかりと反省してください。

 わたしが上で述べたこと、以前に指摘しておいたことをまずはしっかりと踏まえてください。

 作品の評論をするにあたっては、筆者が「女性の細胞は、全く容易に、動物のそれに化することが、できるものなのである。」などと述べていることを重要なキーワードとして読みといてゆかなければならないでしょう。現代における科学的な認識論からすれば、あらゆるところで筆者が踏み外しをしていることを認めるのは難しくありませんが、些事に言及していては、本質を掴みきれずに終わってしまいますからね。

◆◆◆

 総評として、評論そのものの姿勢の誤りに引きずられて、一般性、論証、結論のすべてが誤っており、読後に浮かぶ感想は、「一体これはなにを言いたいのか?」というものでしかありません。恐ろしいほどの誤り方です。すべて書き直す必要があります。

盲目の人間が目を移植されたあと、その日から目が見えるようになるだろうか?(3)

(2のつづき)



 さて、前回のおはなしは、「人の立場に立って考える」ということを、理性的にとらえかえした「観念的二重化」のことをお伝えしておいたのでした。

 わたしは論者が、問にでてきた女性がもつであろう認識を、論者がいちおううまく追体験できていることを指摘しておきました。論者の言うところを見てみましょう。

その彼女が目を移植され、目をあけることができたとしても、まず世界の明るさに驚くのではないでしょうか。
そして、長い時間をかけて、光に慣れると、今度はぼんやりと色をとらえはじめるでしょう。
そして、その色がやがてくっきりと見えるようになり、物質と物質の境界が見えはじめる事でしょう。

 ここでは、女性がある驚きを持って新しい世界を受け止めていること、それがある期間を持って次の段階に進むこととが示されていますね。そこをふまえて、やや詳しく述べていきましょう。

 術後の回復を見て目に巻かれた包帯を取られることになった彼女は、それまでにも包帯から漏れた暗闇でないものにやや慣らされつつあったものの、それでもやはり、そこでの体験は「うわっ!?」という驚きに満ち溢れたもののはずです。それは、それが「光」とか「明るさ」だと他の人が呼んでいたものなのだとわかりそうでわからない、とにかく「これまでの世界にはないもの」がそこにある、という感触です。上では「暗闇」と表現しましたが、「光」と比べてみなければあるものを「暗闇」と呼ぶこともできないのですから、とにかくわからないものがある!という驚きに満ち満ちているのです。
 同じように、論者が一言で「色」や、「物質と物質の境界」といったものも、「なんだかあそこだけ周りとは違っている、動いている」という感触でしかなく、それが人の顔であったりとか病室に飾られた花瓶であったりなどということは、まるでわかりもしないのだ、ということを念頭において追体験しなければいけないことになります。論者は、ここをおおまかに捉えています。

◆◆◆

 それに加えて、論者がわたしのアドバイスをうまく受け止めてくれているなとはっきりわかる箇所は、以上のような内容を踏まえて、「長い時間をかけて」とことわりをいれていることです。ここは作中では、「奇蹟が実現せられて、其の女は其の日から世界を杖で探る必要が無くなった。」と書かれていますから、筆者である太宰は、「術後その日のうちに、彼女は物事がはっきりと見えるようになったのだ」と、なんの疑問もなく措定するという過ちを犯していることがわかります。
 ここでの踏み外しは、観念的二重化における落とし穴、「自分に備わっている認識のあり方を、当たり前のものだと思ってはいけない」に見事にはまっているわけです。太宰は、五感を持って生活してきた自分のことを念頭において彼女の認識のあり方を想像しました。そうすると、彼女はまるで、長い眠りについたあと、久しぶりに陽の光を見た人間のような反応しか示すことがないわけです。
 一言で言えば彼は、アタマの中に他人の認識のあり方をおいたつもりでいて、実のところ、それは自分の認識のあり方を自分のアタマの中においただけでしかなかったのです。「人の気持ちになってものごとを考えろ」と言われたときに、このやりかた、つまり「自分の他人化」ではなく「自分の自分化」をすると、むしろ害にしかなりません。

◆◆◆

 以上の二つの点について、わたしは論者の解答を悪くない、と言ったのでした。それというのは、ひとつに彼女の認識のあり方を考えるに当たって、自分の認識の押し付けて解釈しなかったという基本的な姿勢です。ふたつめには、物質的には満たされたはずの彼女の認識は、五感覚器官との相互浸透によって作り作られするなかでうまく働き始めるのだ、という過程的な構造が存在するということを理解していることです。

 ですから、上で述べた問の答えとしては、論者の答えが妥当です。

ですので、物質的に五体満足になったとしても、認識の上では、それに追いつく迄には時間がかかるはずです。

 ここでは、人間というものが、世界を、精神(認識)を媒介として理解する存在なのだ、という論理が浮上しつつあります。決して、物質的な、いわばカメラで撮った写真のような像を、そのままの形で受け止めているわけではないのです。そういう幻想を抱きがちなのは、わたしたちが物心のついた、ついてしまった大人なのであって、そこを器質的に違う人の認識、成長途中の子どもの認識、また未だ認識できないも同然の赤ん坊の認識、にまで無理やり延長して考えるところに、誤りが待ち受けているのです。
 弁証法の言うところの、真理はその適用範囲を的外れに押し広げれば誤謬に転化する、という対立物の相互浸透です。もう1年ほど前からの読者のみなさんにとっては常識になってしまいましたね。

 さてここで、悪くない、という評価は控えめなのではないかと思われる方もおられるでしょうが、これは「基礎的な踏み外しをしていないことは評価できる」という、条件付きの評価をしたのだと理解していただきたいと思います。ここには、「この先も踏み外しをすることなく観念的二重化をしていってほしい」という激励も含まれています。
 裏をかえせば、人間の認識のあり方というものは、それが眼に見えないものであるだけに、より深い構造を現実の実践に照らして手繰り寄せる際に、あらゆる落とし穴が待ち受けており、悪くすれば単なる解釈になってしまう場合さえある、ということなのです。

(つづく)

本日の革細工

今日は図書館が使えなかったので、軽く授業したあとずっと学生さんと議論していました。


ほんとは就職活動の相談だったのですが、
話が弾みもっと大きくて深い話ばかりをしたので、
直接的にはなんのアドバイスもしなかったことになります。

ただこういうことのほうが人間の本質にとっては必要なのではないかと、やはり思います。

◆◆◆

わたしたちが、今日の食事に困らずに、空き時間を見つけては、
人間かくあるべき、という話ができることは、
たしかに日本という国の経済状態に余裕があるからだという前提があります。
わたしたちがのほほんと過ごせているのは、先人たちが必死に戦後の復興に力を注いでくれたからです。

しかしそれはそうであっても、
「そういう状況に生まれ、生きているからこそ」、
できることもあるのではないでしょうか。

わたしは貧しい国を旅行するのが好きで、なぜかといえば
そういうところに行くと、人間の生気というのは経済の過多に依らないのだ、
ということを触れるくらいのところで見ることができるからなのですが、
もし自分がそういうところで生まれていたら、学問を通して人を幸せにする、
などといったこと自体に想いを馳せることはなかったのです。

そういう意味で、いま自分が生まれ育った環境が豊かに恵まれていて申し訳ないと思うくらいなら、
そういう環境に生まれ育ったからこそ、そうでなかったときよりも、
自分にはより大きく羽ばたける可能性を与えてもらっているのだ、
と前向きに受け止めることをしてゆきたいし、後進にもそうしてほしいと思います。

こうして覚悟が決まると、自分の心のなかにくすぶってはいるけれど
現実的に考えたときに引け目を感じるようなことでも、
しっかりと見据えてゆくことができるようになってゆきます。

お話ししてきた内容については、後日触れてゆきます。

ただ複雑な選択に向き合う時こそ、
自分の中での原理や原則がどうしてもやっぱり必要なのだと、
今日も今日とて確認しあってきたものでした。

◆◆◆

さて、本日の回想録はさておき、気分が高まって眠れないので就寝前の作業報告。

ひとつめ、名刺ケース。


以前に友人から頼まれていたので、
しばらくいろいろと型紙とにらめっこしながら考えてみたのですが、
こういう形に落ち着きました。

一枚の長方形の革を手前にぐるっとまわして、
あいだにもう一枚の仕切り革を挟んだ形になっています。


じつはこれ、一番下側の横幅と比べると、
真ん中の仕切り革は2mm短く、上の部分の革は1mm短いのです。
こうしておくと、側面を作らなくても、内側の空間を確保できるわけですね。

横をぐっとつまむと革のテンションが働いて、蓋が開いて中身が見やすくなります。
わたしは名刺ケースが必要なほうではないので、ビジネスのプロがどんな感触を持たれるかは未知数ですが、うまくいけば食事代をもってもらえるらしいのでちょっと期待です。

もしダメなら…おごってもらえるまでがんばる。

◆◆◆

あと、こっちはどうなるかわかんないなあと思いながら作った、
ペットボトルのケース。


「からだ巡り茶」の薄型ボトルしか入らない特殊仕様ですが、
中身は詰め替えて持っていくのでこれでいいのです。

夏場に冷たい飲み物を持って行くと、ボトルが汗をかいて
鞄の中のノートがにじみまくるので、その対策のためのものです。

でも革と水は相性が最悪なので、どう出るか予想もつきません。
いい加減に放ったらかしにしてたらカビ生えちゃいそうだしねえ。

まあこればっかりは使ってみないことにはなんとも、ですが、
製作上の技術的には底面の立体処理をはじめ、問題は残らなくなりました。
というか、ぜんぜん物足りない感じです。

次はもっととんでもなく難しいことやりたいなあ。
気持ちがここまで高まってきたら、
以前から腹案を巡らしている木と革での人形作りにも、いよいよ進めそうです。

2011/04/18

盲目の人間が目を移植されたあと、その日から目が見えるようになるだろうか?(2)

(1のつづき)



 さてここまで書いてみると、相手の立場に立ってものごとを考えてみる、というときにでも、認識における原則と論理といったような、精神についての交通関係の基礎的な理解が必要であることがわかってきます。
 わたしたちはこれまで生きてきて、その論理のレベルも、認識の深さといったありかたも、それぞれ自分勝手にしか成長してきてはいないのですから、「人の立場に立って考える」という、ことばにすると至極簡単なことでも、これほどの内実が含まれているのだと理解してもらいたいところです。

 こういうおはなしをすると、「お前にそんなことを言われなくともわかっている」と啖呵を切る方が、必ずおられるものです。社会経験や仕事を通して、自分には人を見る目がある、といった方ほど、こういった傾向が避けられないものになってきます。こういった方が失敗してもなんらの前進も見せずに失敗を繰り返すのは、失敗した原因を相手にだけ押し付けるからです。人間として尊敬されたいのならば、自分のことだけはまともに反省するという謙虚さくらいは、年齢にかかわらず持っていただきたいところです。

◆◆◆

 直近の経験では、こんなことがありました。ある留学生に、チューターをつけねばならないとなったときのことです。ある学生が、私は英語がペラペラなので立候補しますというので、彼にお願いすることになったのでした。わたしはこのとき黙っていましたが、彼が失敗するだろうなということはわかっていました。彼のことばの節々に、謙虚さが微塵も感じられなかったからです。しかし、教育者の役目は、失敗する前からどこに落とし穴があるのかを教えることではありませんから、留学生にはあとでフォローするとして、彼には身を持って失敗してもらおうと思ったわけです。
 チューターというからには、「留学生の立場に立って」、日本のことや勉学、生活の不自由を補ってゆかねばならないわけですが、やはりというか、彼はその役目を果たせませんでした。彼の言い分では、留学生の語学力が低すぎて、言っていることをやってくれない、というのです。さてどういう教え方をしているのかなと観察していましたら、一番はじめに目についたのは、彼が生地の方言でしゃべっていることです。彼の生地と大学とはそれほど離れてはいませんから、日本人の学生であればまるで問題がないのですが、留学生にとっては、これは大問題です。

 彼らは母国で日本語の基礎的な知識は習っていますが、まさか日本語の方言をすべて習うわけにはゆきません。しかも輪をかけて困るのは、こういった語学の修練というのは、一般に文語に近い口語で習わされるということです。ですから彼らは、「今から買い物に行くところなんだよね?」くらいならわかりますが、「これから神戸行きよんねんな?」などといった表現が続くと、部分部分の言葉を追うことで精一杯になってしまい、会話が成り立たなくなってしまいます。留学生にとっては、「神戸」が、「神戸全体」ではなくて、「三宮を中心としたショッピング街」を特定した言葉であることはもちろん知りませんし、ましてや「大阪で買える物、神戸で買える物」という違いもわかりません。それに、「行きよんねんな」などといった方言は、完全にお手上げといってもいいほどの難しさなのです。あとでわたしに、「よんねん」とは「四年」でしょうかと聞いておられました。そのコミュニケーション不全が積み重なって、数日後の「あの留学生は語学力が低すぎる」との意見になってしまったのでした。わたしから見れば、その留学生の日本語力は、標準的な日本語であれば十分に意思疎通のできるものです。

 この行き違いは、「もし自分が外国で育って、日本語学校で教わったことしか知らなければ」と、その人の立場に立って振る舞い方を変えることが出来れば、避けられたことです。認識論などまるで知らない人でも、こういったコミュニケーションをしっかりと成立させることができる方は、経験の上でその能力を培ってきているわけです。その優れた能力を持つ人は、いったいどうやって人の気持ちを考えているのだろうか、という、実践で得られた知識を、どんな分野にでも使えるように抽象化し、実践に向き合う際にも使えるように体系化したものも、認識論という分野の一部なのです。言い換えれば、「人の立場に立って考える」という感性的な認識のあり方を、実践的な試行錯誤の中から理性的なものとして磨き上げたものを、「観念的二重化」と呼んでいるということになります。

◆◆◆

 さて、ここでわかったことを、一言で述べて指針にしておきましょう。
 それは、「観念的二重化」の大前提は、「自分に備わっている認識のあり方を、当たり前のものだと思ってはいけない」、ということです。上でのチューターの失敗は、まさにそのことを看過した結果なのです。

 そうはいっても、いくら外国人だからとはいえ、同じヒトとしての一般性の上の特殊性として、日本人と外国人である、もっといえば生活体としての違いがあるだけなのですから、サルと話す方法を使ってはいけないことになります。
 この論理的な帰結として、「人間としての一般的な認識のあり方はどういうものか」ということを押さえておくと、日本人であろうが外国人であろうが、コミュニケーションの際の指針が導かれることになりますね。「原則というのは、実践的な問題にぶつかったときにこそ必要である」という、経験主義者には単なる逆説にしか見えない一大論理が、ここには現れています。

 「いま自分が持っている認識のあり方を、当たり前だとは思わない」、ということは、弁証法的唯物論の立場に立つ認識論にも、必須の大前提です。観念論の立場は、その本質的な前提として、「精神は物質に先行する」とするのですから、ここは問われることがありません。すでに成立した一般的な形の認識を、誰しも持っていて、それをとおして世の中を見るのだ、ということになります。唯物論はそれとは逆に、「物質は精神に先行する」というのですから、なんとしても、物質から精神のあり方へと発展してゆくさまを描ききらねばなりませんし、認識論だけをとってみても、「おぎゃあと生まれた赤ちゃんが、生育するにつれてどういった脳細胞の実力をつけてゆき、それと浸透するように認識の力を身につけてゆくのか」、ということが解明されてゆかねばならないことになります。

(3につづく)


◆2の余談:ものごとの見方の土台について、学問的に整理しておきたい方へ◆

 余談ですが、ものごとの見方(世界観)を考えるときに、唯物論でも観念論でもないとする立場をとる思想もあるにはあります。しかしそういった立場に立つと、物質と精神をその交互作用、つまり区別と連関をもって捉えることをせずに、いきなり存在一般に解消してしまう場合がほとんどです。それと同時に、いきおい認識が森羅万象に解消されてしまうことになり、論理的強制として過程的構造などは陰も形も現れませんから、歴史的な見方をしなくなり、次に歴史的な流れを踏まえないことから論理性が硬化し形而上学となってゆきます。過程にふくまれる構造をみないことを、眼に見えるものごとだけしか扱わないという意味を込めて、ときには侮蔑的に、「現象論」と言うわけです。
 現象論べったりの研究も、学問レベルではないにしろ知識的にはそれなりに通用するものですが、事実を平面的に並べて論じる姿勢から、解釈主義に滑り落ちてしまいがちです。解釈主義を現実の人間のあり方に押し付けてもそれらが傷つかないように見えるのは、それが単なるアイデアレベルで精神のごく一部にしか働きかけないために、その誤りが死傷などといった現象として顕れないからに過ぎません。眼に見えたり間接的に感じられるものに「私はこう思う」という人生観レベルのあれやこれやの解釈を押し付けるという解釈主義的な態度で、研究者としての生活の糧を得るという態度については、まるで評価はしないもののあえて無視しますが、それを生命や未来を担う後進の育成に使ってしまうという手合いはれっきとした悪ですので、容赦することはできません。
 物質と精神を弁証法的(?)に止揚する(?)などと言うと、初学者はなるほどそれが次なる段階か、などと思ってしまいがちのようですが、概念規定なくして学問なし、との言葉通り、せめて、しかるべき区分がなされなければその連関も論じられない、という事実を、相互浸透の法則を照らして導きだすことはしてほしいと思います。

 現実が何であるかをとりあえず常識的なところでおさえておくならば、認識の方法は、「観念論」と「唯物論」です。互いに移行しあうとはいえ、その認識を現実に適用するときに、前者は宗教的・思想的な形を持った「訓示」といった形で現れますし、後者ならば科学との親和性から、「技術」として現れるのであって、それ以外ではありません。ですから、安直にちゃんぽんしてはいけません。自分が採用するのは観念論でも唯物論でもいいのですが、自分がどちらの立場でものごとを考え、論じているのか、と論理的に明確に区分する実力を養って、理性的に自覚をしておかなければ、どうしたって一流にはなれません。なぜなら、ものごとを論じるときの根本が揺らいでしまうために、論じ続けている中で解決できない根本的な矛盾が露呈してくるからです。理論は論理の体系であり、論理によらねばならない学問は当然に体系性をうちに含んだものですから、根本的な矛盾を抱えたままでは学問にはなりえません。研究人生の途中で世界観を転向したある哲学者の顛末を知れば一目瞭然ですが、実践的理論家だけではなく、理論的実践家として、我が道を極めようとされる方にもこの原則は必須事項ですから、心に誓って下さるようお願いしておきます。

2011/04/17

盲目の人間が目を移植されたあと、その日から目が見えるようになるだろうか?(1)

 前回の問いかけについて、お返事をいただきました。



 ただ書き終えてから読み直しましたら、初学者にはやや難しい内容になっているかもしれません。
 ここの読者の理解の度合いも自然に高まってきたために、彼女・彼らの反応を手がかりにするだけでは、わたしはどのあたりまで加減すればいいのかがわかりにくくなっています。
 「ここってどういう意味?」、「ここまで言っていいの?」などといった素朴な反応でかまいませんので、ご連絡をいただけましたら補完してゆきます。


 前回の問いかけは、太宰の『女人訓戒』に端を発したものでした。引用してみましょう。

【問】
 ところで、仮にもまともに人間の認識の過程的構造を唯物論的に追うならば、気にならなければならない決定的な問題が、この作品には含まれています。その箇所は、「盲目の女が、兎の眼を移植されてその日から世界を杖で探る必要が無くなった」というところです。ここでは問題を明確に浮き彫りにするために、人間に兎の眼を移植することには成功した、としてください。つまり、それまでは盲目であった女性に、「物質的には」なんらの問題のない眼球が移植され、彼女は「物質的には」五体満足になったのだ、という仮定のうえで考えてみてください。わたしが括弧書きしたことには、それ相応の意味が隠されていることはわかりますね。そうすると、実際にこのような手術が行われ成功した場合、本当にその日から目が見えるようになるのだろうか?と考えればいいことになります。ちょっとヒントを書きすぎてつまらないでしょうか。考えてみてください。

◆◆◆

 この問を考えるにあたって必要な条件だけを残すと、こういうことになります。

 「盲目の人間として生まれた女性が、正常な目を移植された場合、
 その日のうちに目が見えるようになるだろうか?」

 それにたいする返事はこのようなものです。

◆◆◆

ブログを拝見しました。
今回のブログでコメント者が「物質的には」と括弧書きしたのは、では「精神的には」どうか、というところを指摘しているのだと推察しました。
太宰は物質的に何かを取り入れる、或は何かを取り替えると当然精神にも影響があるはずである、ということを指摘したかったのでしょう。
ですが、彼は物質から精神への流れは説明できても、その逆は説明できていません。
これがあなたの述べている「筆者の考察が一面的である」ということの中身です。
大雑把に全体をとらえたつもりなのですが、どうでしょうか?

◆◆◆

 彼はこの問を考えるときに、「コメント者が『物質的には』と括弧書きした」ということを手がかりとしたようです。

 まず、「物質的」に対する言葉は「精神的」である。
 そして、作品の中で太宰は、Lの発音を正確にするために西洋人の真似をしてタングシチュウ(牛の舌のシチュー)を食べる夫人の話などを挙げている。
 そうすると、太宰は、「物質から精神へのありかたを述べたのだ」。

 論者は、このように解釈したようです。


 このことについて注意をしておきますと、論者が、物質か精神か、という二律背反の考え方で留まっていないことは、いちおう評価できます。
 これは、「物質から精神」という影響を考えるにあたって、いやまてよ、「精神から物質」の影響も考えておかねばならないのではないか、と考え始めたことは悪くない、という意味です。
 しかし、この「逆をとる」という考え方そのものは、決して弁証法的な論理を使って考えていることにはなりません。それは結局のところ、形而上学的・形式論理的の域を出ないのです。形式論理で考えても、命題について裏・逆・対偶くらいはとってみて考えてみることができてしまいますからね。

 ところが、形式論理を身近な事柄に適用して考えてみればわかるとおり、あのような考え方では、あらゆるところで先に進めなくなります。
 たとえば振り込め詐欺が起きたときのことを考えてみてください。テレビを見ると、被害者やそれに同情する立場の人は、なんという痛ましい事件だろうかと思うでしょう。そうすると、これは大きな失敗であるということになります。しかし他方、人を騙してお金を稼ごうと思っている人間がその手口を見たなら、なるほどその手口があったか、と思いますね。そうすると、彼らにとってはこの出来事はある種の成功として追体験されるわけです。
 「あれかこれか」と割り切る態度では、現実の持つ立体的な構造を正しくつかむことはできません。

 その形而上学的・形式論理的に凝り固まった考え方に対して、精神と物質について弁証法的に考えるということがどういうことなのかと言っておきましょう。それは人間の精神活動ですら、物質の運動が高度に量質転化した働きであるとして考えてゆくことなのです。
 一般的なものごとの見方しかできなければ、「精神が物質の運動であるとはなんとバカなことを…」と短絡してしまいそうなところを、歴史的な流れをふまえて、物質が大きな流れを経て量質転化的に精神へと発展してゆくさまを、弁証法的に解明してゆくわけです。

 ところが今回のメールでは、論者は精神から物質か、物質から精神かという「あれかこれか」にとどまった考え方をしているように察せられました。そうしてわたしは論者のメールから彼の論理性をアタマの中に描いたうえで、彼はまだ以上のようなことはうまくふまえられていないのだと確認しましたから、この問題を解くに当たっての方法論について、こうアドバイスしました。

◆◆◆

それはコメント全体をふまえたうえでの推察のようだね。
間違ってはいないが、やや方向性がずれていると思う。
この問題を解くにあたっては、問題の部分だけをしっかり読んで、自分が同じ身体を持って生まれて同じ手術を受けたとしたら、術後に包帯を解かれたとき、目の前の景色がどのようにみえるだろうか、と想像をめぐらしてみたほうがいい。
そのとき、器質(物質)的には五体満足になっているはずだが…術後、「本当にその日から目が見えるようになるのだろうか?」

ヒント:
認識のあり方は、人によって違うのだったね。

◆◆◆

 わたしはここで、弁証法的な論理をまだうまく現実の問題に適用できるだけの技術(=認識の適用)と知識が足りないことをうけて、難しく考えるよりも、同じ人間が体験することなのだから、彼女の身になってその体験を捉え返してみてはどうか、「こう想像してみたらどうか」という方向性で助言をしたわけです。

 そうしましたら、返ってきた答えはこのようなものでした。

◆◆◆

物質的には五体満足になっても、彼女はすぐに目が見えるようになったとは思えません。
彼女はこれまでの人生の中で、光や色といったものと無縁の世界で生きてきました。
その彼女が目を移植され、目をあけることができたとしても、まず世界の明るさに驚くのではないでしょうか。
そして、長い時間をかけて、光に慣れると、今度はぼんやりと色をとらえはじめるでしょう。
そして、その色がやがてくっきりと見えるようになり、物質と物質の境界が見えはじめる事でしょう。

ですので、物質的に五体満足になったとしても、認識の上では、それに追いつく迄には時間がかかるはずです。

◆◆◆

 悪くない答えですね。

 みなさんは、この解答のどこに要点があるか、おわかりになりますか。
 論者は、ある表現を対象として受け止めて、アタマの中にその人の思いを写しとり、その人の立場になって考えてみる、という「観念的二重化」ということを、あるていど行うことができています。

 それを敷衍して、彼女の認識のあり方がどういうものなのかをすこし追ってみましょう。

◆◆◆

 まず問題にあった女性は、これまで一度も、自分の目でなにも見たことがなかったわけです。
 彼女は、一般の五体満足な人間ならば、五感を通して認識できるであろうはずのところを、生まれてこのかた、いわば四感をとおした像としてしか結実出来ていません。
 わたしたちが日常的にやっているような、街角で友人の顔を見かけてぱっと明るくなるようなあの気持ちを生み出す条件、朝鏡に向かっての今日は疲れた顔をしているなあというつぶやき、美術館で先人の残した絵画や彫刻を眺めに眺めて、それでも理解できずに自宅で模写をしてみることの、土台すらないのです。
 彼女は、普通に食事を摂るときにすら、指に触れることでしかコップに入れた水のかさをはかることができませんし、口に入れてみるまでそれが醤油なのかオレンジジュースなのかもわからないのです。

 もっとも、彼女は「目が見えるということがどういうことなのかを、身を持って体感したことがない」のですから、健常者が、「目が見えなくてさぞ大変であろう」という同情を強く出した感情的な反応しかできないのにたいして、他の四感で、非常にうまく、自分なりに必要なだけの生活を送るための工夫を積み重ねてきているわけです。
 現実にも、舌を鳴らした音が反響するのを聞き分けて、物にぶつからずに外出できる盲目の少年もいるほどなのですから。

 そうすると、彼女にとっての世界のあり方は、視覚を除いた認識であることがもともとすべてなのですから、視覚をふくんだ五感覚器官がどのような認識をもたらすかは、他人の表現を受け止めて想像することしかできません。そこでの不自由というものは、周囲の健常者が「こんなこともできなくて大変だろうね」と表現することを通して、「想像してみる」ことでしかとらえられないのです。
 彼女にとっては健常者のありかたについて、「それができたら便利ね」ということではなく、「それ」がどのような中身を指しているのかはうまくはわからないけれど、目の見える人が便利だというなら便利なのだろうな、という感じ方であることに注意してください。

 彼女は、他の大多数の人たちが、自分とは違ったやり方で世界を見ているであろうことはたしかなようだとわかりますし、事実そういった前提の違う人たちが創り上げた社会の中では、直接にある種の不自由を感じることもあるのですが、だからといって「大変ね」と言われても、「そういうものかしら(=体験したことがないからなんともいえないな)、私にとってはこれが普通なのだけど」といった感想を持っていることは想像に難くないわけです。

(2につづく)

2011/04/16

新しい季節をおくる諸君へ:趣味はどう選ぶべきか

 春になり、新しい読者が見に来てくれているようです。



 いきなり最新のエントリから入ると、
「さっぱりわけわからん!なんじゃこの文字ばっかのブログは!?」
となってしまうと思いますので、
過去のエントリも拾い読みしながら理解してもらえたらうれしいな、と思います。

 ただ最近の内容は、学問としては入り口であるとしても、
それでも初学者には難しいものであることに変わりはありませんから、
適宜質問をしていただければ、出来る範囲でお答えいたします。


 いまはこんなものものしい文体のおっそろしい閻魔帳になってしまったものの、
書き始めたころには、「本日のデス映画」なんていうコーナーもあったのです。
 わたしの好きなB級映画に大人気なくツッコミを入れるというものでしたが、
映画よりも学問的なものごとの見方を深める方が楽しくなってしまってご無沙汰、というわけです。

 たまには砕けた話もしたいなあとは思うのですが、なにぶん余分な力はありませんし、
いい加減なことを言って未来ある後進にインチキを吹き込む大人をどうしても許せないタチであることも災いして、
どうしても力のこもった言い方になってしまうことも多いかと思います。

 そんなときは、ああまたはじまったよ、とそれなりの距離感をとってにこにこ眺めていただけると嬉しく思います。

◆◆◆

 さて今回は、前途ある後進からこんなご質問をいただきました。

 「なにか新しいことをしようと思うのですが、どんな趣味を選べばいいでしょうか?」

 といっても、以前からの知り合いなので、わたしがどういう生活を送っているかはわりとご存知の学生さんです。
 彼に言わせると、わたしという人間は、
なんにでも興味があって死ぬまでにすべての娯楽を触り尽くしてから死にたい、
という印象だそうです。

 でもこれについてひとこと言っておきたいのですが、
表面上、いろいろなことに手を出しているようにみえても、
それが一つのことをやっているだけ、ということもあるのです。

 たとえば、わたしの家の本棚には、社会科学、自然科学と精神科学というあらゆる分野についての本があります。
 旅行ガイドも画集もありますし、図鑑も子供の頃から読み返してぼろぼろのものを置いています。漫画も、大事なものは譲らずにとってあります。一定の文化レベルに達したと思える映画やTVゲームもあります。
 もちろん、表面上の専門はいちおうありますから、すべてがまんべんなく揃っているわけではありませんが、
一見するとなんにでも手を出しているように見えるでしょう。
 少し見る目の肥えた人なら、「こいつはいろいろとつまみ食いしているだけだから、モノにはならない人間だな」
と思うことだと思います。

◆◆◆

 ただこのことについてはひとつ大きな理由があり、わたしの基本的な方針というのが、
「ある分野の歴史から流れを捉え返して、そこからその分野の論理を取り出す」
ということだからです。

 そうすると、表面上はあらゆる分野についてバラバラの書籍がありながら、
本質的にやっていることは、いわば「学史に潜む論理」という観点で、筋が通っていることになります。

 わたしはこの筋、つまり自らの道の一般性に照らして本を選びますから、
自分自身としては、決して乱読していたり、つまみ食いしているわけではありません。

 ですから、ある道を突き進んでいる方から見れば、我が家の本棚は、
「ああなるほど」と思っていただけるのではないかと思います。

◆◆◆

 わたしも大学時代は、とにかくたくさんの国に旅行に行ったり展覧会に行ったり、
たくさんの映画を見たり、たくさんの分野の人の講演会に行ったりした時期がありました。
 あの時期は毎日あらゆるジャンルの本を1冊は読みましたし、3ヶ月に一つは資格を取りました。

 でもそんなことも、それほど長くは続かなかったと思います。
 その中からいくつかを、やはり力点を定めて取り組むことになってゆき、
いまでは形として残っているのは、3ヶ月にひとつ大きなテーマを見つけて取り組む、という決まりごとくらいです。
 映画や音楽、旅行やデザインなんかの個別的な知識については、
誰かに話題をふられればそれなりに受け答えできますが、
新しい事情についてはさっぱりなので、「話を聞けるくらいの知識」しかありませんし、
特別な事情がない限り、自分から情報収集もしません。

 そうして絞りこめていったのは、やはり、「自分の目指すもの」が、おぼろげながら見えてきたからです。
 それとともに、「一流とはどういうものか」というアタマの中の像が、ある明確な形として見えてきたからです。
 それは、いま取り組んでいることとも、明確に一致していることです。

◆◆◆

 ですから、とにかく多趣味の人間としてわたしを見ておられる学生さんには、
ちょっとガッカリさせるかもしれませんが、こう言いたいと思います。

 「趣味は、あまり多くないほうがよい」。

 あらゆるジャンルについて知るということは、人間の深みを知るにあたっては大事なことですが、
それはなにも自分で取り組まなくとも、その道を真剣に歩んでいる人物との出会いがあれば、
「その人のことばの深みをしっかり受け止められる」くらいの知識や想像力はつくものです。

 ある道をしっかりと深めていっておられる方と話せばすぐにわかるとおり、
深いところでは、あらゆる道がひとつのところに通じています。
 ですから、あらゆることを知ろうとせずとも、一流の人、これはなにも有名でなくても、
自分のこれは、と思う人を見つけて、その人が「なにを見ているのか」と問うていればいいわけです。


 そこまでたどり着くためには、積極的な意味のない、
いわば趣味レベルの趣味は、むしろ無いほうがよい、とさえ言ってしまおうと思います。

 「消極的な意味しかない趣味」というのは、だらだらテレビを見たり音楽を聴いたりする、ということです。
 そもそも人間が動物と本質的に異なるとされるのは、ある物事に向かって目的意識をもって向きあい、
対象を変えることによって自らの生活と自分自身を変えてゆくことができるからです。
 そうすると、ただ口をぽかんと開けて上から降ってくる先人のおこぼれにあずかるというのは、
まさに動物レベルですから、こういった姿勢は人間的な嗜みではありません。

 ただ、表向きはただテレビを見ている場合にも、それが強い問題意識を含んでいる場合には、
しっかりとした趣味になり得ます。
 テレビ局のプロデューサーならば、より良い番組作りを目指すために番組のザッピングは欠かさないでしょう。
 それは、立派に人間的な営みと言えます。

 もし職業上のつながりがない場合には、自分が見聞きしたことの記録を残すことを強くおすすめします。
 音楽を聴いたことについて、美術館に行って見聞きしたものについて、評論を書いたり、実際に模写をしてみるのです。
 そうすると、自分の進歩が眼に見えてきますから、次に取り組もうという意欲や、
当たり前に見えるけどここにはすごい工夫があるのだなといった問題意識もより明確なものとなってきます。
 そしてまた、こうして、知識や知恵を自分のものだけにしておかず、社会性を確保するということは、まさに最高と言ってもいいほどに人間的な労働です。

◆◆◆

 また「積極的な意味」をまともに受け取ろうとしても、いろいろな意味あいをふくんでいますが、
ひとつの目安としては、「外面上をとりつくろうための趣味」は止すべき、ということは言えます。
 たとえば異性の気を引きたいとか、友だちに自慢したいとか、親に褒められたいとか、そういう動機で選ぶ趣味のことです。
 以前に流行ったことば、「マイブーム」といったようなことですね。あれは止すべきです。

 流行が、生涯を貫く道のきっかけになる場合もありますが、
物心ついたあとには、すでにどうしても合わない趣味が増えてきていますから、
ピンと来ないものに手を出しても、ものになることはほとんどありません。

 もしそういうことでも新しいことをやるぞ、というときには、
それをやらなければ身体がムズムズするくらいの習慣になるまで、決して止めてはいけません。
 わたしは身体をガタガタに壊したときにランニングとピアノをはじめましたが、
いまだに3ヶ月毎にテーマを決めて取り組んでいます。

 そのときに一つの筋をとおしているのは、一言で言えば「技術」という観点から見ているということです。
 たとえば音楽でいえば楽譜は理論ですが、
その理論を現実に適用して、実際にピアノが弾けるようになるまでには、
それこそ気の遠くなるほどの研鑽過程が必要ですね。
 最高の楽譜を手に入れたから一流のピアニストになったのだ、などというと病院に連れていかれるでしょう。
 そうするとそこには、理論と実践の大きな隔たりが矛盾として存在しているわけですから、
その一般性に照らして言えば、絵画、ランニングなど、あらゆるものが一般的には同じ論理として取り出せるはずです。

 ですから一言で言えば、ピアノやランニングを媒介として、技術論を確かめている、ということです。
 こういう見方ができるようになると、その技術論を念頭において新しいジャンルに進んでゆくことができますから、
これほど面白いことはない、というほど新しいことに取り組むのが楽しみになってきます。

◆◆◆

 ここまで述べてきたことを一言で言うならば、
自分にとって積極的な意味のある分野を探して、
そのことについて調べたり、考えたりすることが習慣になるくらいにしよう。
ということでしょうか。

 そのことが、人間として意味のある趣味ということです。
 そしてこれはもはや、単なる趣味の域を超えて、我が道そのものになりうる営みです。


 みなさんには、人間としての大道を、背筋をまっすぐに伸ばして歩いていってもらえるよう、心の底から願っておきます。
 残念ながら、まっすぐに生きようとする人間の足を引っ張る趣味の大人もいますし、僻みや嫉みなどを浴びることも少なくありませんが、まっすぐな生き方をしている人間でなければ、決して見えてこない高みというものが、現実にははっきりと存在しています。
 できうるなら、まわりの人間が暗い情熱に取り付かれてそういう落とし穴に引きずり込まれそうになったときには、その手をしっかりと握りしめて引き上げてあげることのできる人間にまで、なってほしいと思います。

 みなさんにも一刻も早く、森羅万象の圧倒的な広がりの中で生まれた生命現象が、精神を持った人間となるところにまで育まれ、ここまでの高みに上り詰めたという事実を見ていただきたいと願ってやみません。
 そうして同時に、ここまでの高みにあるからこそ、同じだけの責任をもって、最大の自負とともに歩んでいかなければならないのだ、ということも、身を持った実感としてふまえておいてほしいものです。